王舎城の悲劇(8)
観無量寿経を巡って

講師 中川皓三郎先生

□95年11月の講話より(第11回)

安心できる世界 

我宿何罪、生此悪子。

世尊復有何等因縁、

與提婆達多 共為眷属。

                           『観無量寿経』

グチを聞いてくれる相手を見つけるということは大切なことだし、
他人のグチを黙って聞けることも、また大変なことです。

「何でこんな悪い子を持ってしまったのだろう、身に覚えがないのに。
どうしてあなたは、ダイバダッタという悪人と親戚なのだ。」

というイダイケのグチを、釈尊(世尊)は黙って聞かれるわけです。

 

唯願世尊 為我廣説 無憂悩処

唯(やや)、
願わくは世尊、
我が為に、廣く憂悩無き処を説きたまえ

『観無量壽経』

[唯]イダイケが釈尊にグチのありったけを言えたことから、縁が始まっていくのですが。

それに対しひと言も答えない釈尊。

その沈黙の深さ。それが観経のこの部分、欣浄縁(浄土を願う縁)と呼ばれるところの、一番のポイントであるのです。

 

 


釈尊、耆闍崛山より来る。
イダイケ夫人、身を地に投げ
号泣して訴える

 

私達が問題に直面したときの、その問題の解き方は、

「それは私とは関係がない」という形で解くわけです。

だから親子であっても、その相手が自分を苦しめてくる時には、それは

「親でもない、子でもない」という形で解こうとするわけです。
それが世間の解き方でしょう。

でも観経で問題にされているのは、

その関係は切れない
ということなのです。

 


無有安心之地

『観経疏』

 

 

(1)

安心の地、
有ること無し。

 

(2)

心を安んずるに、
ここより
地(ところ)
有ること無し。

 

ここで親鸞は変わった読み方をされています。

善導大師は『安心の地、有ること無し』と、

本当に心の安んずる所は無い。だから浄土を欣(ねが)うのだ。というのですが、

親鸞は同じ文章を

『心を安んずるに之(ここ)より地(ところ)有ること無し』
と読んで、どこへ逃げようと間柄は切れない

即ち、私の生きる場はここしかない。ということを強調されています。

仏道は出世間といわれますが、世間と離れての出世間ではないのです。

むしろ、出世間という立場・視点を得て初めて世間を包むこと、世間を本当に生きることが始まるのです。

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