王舎城の悲劇(7)
観無量寿経を巡って

講師 中川皓三郎先生

□95年8,9月の講話より(第8,9回)

仏教の人間観 


だいたい人が行き詰まって自殺まで考えようかというときは、
世間を基準として、その基準において、自分の居場所が無いとされる状況となったときに、

『もう生きておれない』と思うわけです。

ですから、世間における物事の解決方法は、
あったことでも無かったことにしてしまうわけです。

つまり、闇に葬(ほうむ)ってしまうのです。

 

時韋提希 被幽閉已 愁憂憔悴。

遥向耆闍崛山、為佛作禮、而作是言。

如来世尊、在昔之時、恒遣阿難、

来慰問我。我今愁憂。

                           『観無量寿経』

けれども、その方法では、
そのようにする自分自身の全体が不安を離れられないし、
本当の確かさを持つこともできない。

何か自分がウソをついているような、
自分自身で自分をあざむいているような感じが、
どうしても残るのです。

 

○そのときに、仏の教えは
『そのような苦しみを、苦しみと感じることこそが、
本当に大切なのだ』というのです。

何か、道が開けますね。

どのようなことが起ころうと、あまり慌てふためく必要がなくなりますね。

 

 

 

世尊威重、
無由得見。

願遣目連、
尊者阿難、

與我相見。

『観無量寿経』

閉じ込められたイダイケは、遙(はるか)かな世尊にたのみます。

『世尊(お釈迦様)はおそれおおいので、弟子の目蓮と阿難を遣わせて下さい』と。

ここに、私達の宗教に対する関わりの問題が出ています。

本当は仏陀(目覚めた人)においてしか解けない問を持っているにもかかわず、私達は、「仏陀は要らない」と言うわけです。

来てほしいのは私を慰めてくれる人なのだと。

私達は言い訳したいのです。
「しかたがなかった」
という形で自分を救おうとするのです。

 

 


イダイケ夫人、幽閉され愁憂して
阿難、目連の慰問を乞う

人間は何者のドレイにもなることなく、そこに自立して生きていくことのできるものだ。
それが人(ひと)なのだ。

これが仏教の顕(あきら)かにしている人間の姿です。

私達は本当に自立することが大変なのです。
誰かに寄りかかりたい。釈尊だって利用したい。

『自立』とは、あらゆる責任を、この私の上に担(にな)うことです。

恐ろしいことですね、言い訳できないのです。
真なのか、偽なのかです。

遠離我心貪著自身

遠離無安衆生心

遠離供養恭敬自身心

『浄土論註』

 

我心、
自身に貪著する
を遠離する。

 

無安衆生心
を遠離する。

 

自身を
供養し恭敬する心
を遠離する

 

 

よく物事を観れば、自分に問題があることは解る。
そして、何とかしたいと思う。

ところが、そんな自分を自分自身は否定できないのです。

人間の誠実さが、最後に陥る問題はここにあります。

人間は人間を否定することができない。
そうして「共にダメだ」という形でつぶれていってしまう。

そこに、どうしても私自身の存在が問われねばなりません。
浄土教が見出した「凡夫(ぼんぶ)」という問題です。

 

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