王舎城の悲劇(6)
観無量寿経を巡って

講師 中川皓三郎先生

□95年7月の講話より(第7回)

人の誕生(身と土をたまわる) 

親と子という関係は生まれつき、切っても切れない関係です。

親がなければ、この世に生を受けること自体がないわけですから。

 

時にアジャセ守門の者に
問わまく

「父の王、今になお存在せりや」

                           『観無量寿経』

父の王を閉じ込めたアジャセ王子が、2,3週間も経ってからこの様にといます。

もう死んでいて当たり前なのに、「死んだのか」でなく、「まだ生きているのか」と聞く。

ここに善導大師はアジャセ自身も気付かない深い思いを見ます。

 

自分の意志としては、殺そうとしているけれども、

深い意識のところでは、まだ生きていてくれと願っている。

そのような深い割り切れない関係が親子なんだと。

 

 

時阿闍世
問守門者

父王今者
猶存在耶

『観無量寿経』

ところが、人は成長する中で自我に目覚めていき、
その自我を中心に「自分の思うように生きていこう」とし始めます。

だいたい3歳から10歳くらいと言われていますが、
自我、すなわち他と区別された自分に目覚めるとき、必ずぶつかることは、

「自身は自分の思い描いているようなものではない」

という事実です。

アジャセの場合でいうと、

それは「折指太子」という名に表現されていますね。

アジャセが生まれたとき、「両親によって殺されかけて指が折れた」ということです。

それは現在「善見太子」として、誰とも対立しない優しい人として生きているアジャセに、決定的に異なった許せない事実として、アジャセの前に現れてきます。

「折指太子」および「善見太子」はアジャセの別名です。

 


アジャセ、白馬に乗って
父ビンバシャラ王の所に至り
守門者に問う


衆生為別報之体
国土為共報之用
体用不一
所以応知

『浄土論註』

 

それ
衆生は別報之体となす。
(べっぽうのたい)

国土は共報之用となす。
(ぐうほうのゆう)

体用一ならず。

所以(このゆえ)に
知るべし。

人が生まれるということは、
身(存在)と土(環境)とが、
分かち難い(不二)ものとして決まってきます。

生まれてみれば、
男だとか、女だとか、どんな家庭に生まれたとか。
能力、容姿とか、一点のあいまいさもなく決まるのです。

ところが、私達の自我はその私自身を認められないのです。

「なぜ、私はああではなく、こうなのか。」と。
そして、自分に不平や不満を感じるのです。深い絶望です。

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