王舎城の悲劇(5)
観無量寿経を巡って

講師 中川皓三郎先生

□95年6月の講話より(第6回)

人と人との信頼関係 

アジャセ王子が自分の父親を閉じ込めたことが、みんなの知るところとなった。
ダイバダッタのそそのかしに乗って親子の情を捨てた。

「俺はシャカを殺す。お前は親父を殺して、二人でやっていこう。」

とささやくダイバ。

 最初は断っていたアジャセも

「お前が生まれるときに、両親はお前を殺そうとしたんだぞ。」

と、その出世の秘密をバラされてダイバの計り事に乗ってしまう。 

 

爾時王舎大城

有一太子

名阿闍世

随順調達

悪友之教

収執父王

頻婆娑羅

幽閉置於

七重室内

 

――――――――――――――――――――――――――――――

その時に
王舎大城に
ひとりの太子あり、

アジャセと名づく。

調達という悪友の
教えに
随順して、

父の王・ビンバシャラを
収執し、
幽閉して

七重の室(むろ)
の内に置く。

 

「一人の太子あり阿闍世」
 「父の王頻婆娑羅」と。

 『王子』『王』という、
 その社会的な位が語られ、
 同時に、具体的な名が示される。

そして、更に、

 その二者が『親子』であるということ
 が、ここで語られる。

 

社会的な関係と、親子という生命関係の2種類の間柄を持っている。

そして、
 ・王、王子の関係において王を幽閉したことによって、
 ・親子の関係を捨てた。

と、善導は押さえます。 

現代の課題

本当にある人を大事に思い、またその人からも、
自分を大切に思ってもらえる。

 損得で左右されない様な信頼関係なしに、人は生きることが出来ない。

 

それなのに、現代では、
「それはきれいごとだ」

「人はそんな上手いこといかぬ。結局は利害に負けてしまうんだ」

「だから損をしないように自分自身を守るしかない」

「世間はそんなもんだ」

「損をしたら、生きていけない」

といった思い込みの世界に生きて終(しま)っている。

このことこそが問題なのである。

 つまり、いま直前に述べた『信頼関係』を信頼できないという問題なんです。


例えば具体的に困っている人に出会ったとき、その人のために何かしたいという心が起こる。

 ところが、その心がいつも途中で挫折するのは、

「関われば、自分のお金とか、いのちとかを
全部差し出しても関わりきれない」

という場面が、必ず出てくることを心の奥底で知っているからでしょう。

 ここがポイントです。

 その根っ子の『信頼』は自分が起こすのか。あるいは、元々在るものなのか。ということです。

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