王舎城の悲劇(4)
観無量寿経を巡って

講師 中川皓三郎先生

□95年5月の講話より(第5回)

佛・佛説・成仏

善導さまは、観無量寿経は『仏説』だ。仏がお説きになった教えなんだということを強調なさるのです。

仏とは、「真人」、目覚めた人、真の人。
すなわち、真実そのものである仏が、苦悩する私達のために、この世に現れられ、具体的に声をもって述べておられる。

 

『仏説』は文字ではない。仏自身が、私達に直接語りかけておられることなのです。

だから、自分自身の全身を耳にして聴きなさいということが大切なんです。

声は響き、その響きを聴き取る。解釈ではありません。

 


善導大師像 知恩院

善導さまは観無量寿経のことを「無量寿仏観経」と読み替えておられる。それは何故か。

それは、私達自身を前提に阿弥陀仏(即ち無量寿仏)を観ていこう(観無量寿)としても、心乱れる私達に対して、

「そんなことはできない。そうではなく、阿弥陀仏が観ておられる(無量寿仏観)私達自身に、私達が出会う。」

「私達自身がいかなるものであるかということを通して、そんな私達をさえ捨てないで、『あなたもアミダのいのちを生きるものである』と誓っておられる阿弥陀仏に出会っていく。」

ことの大切さを表現されようとしたのでしょう。

阿弥陀(仏)の智慧の光に照らされて阿弥陀と阿弥陀の世界を観ることができる。

佛とはいかなる人か

佛になる(成仏)とは、縁起の法に目覚めること。

すなわち、一切の生きとし生けるものとの関係の中で、新しい私が誕生するということ。

仏陀は、もはやいかなる者とも敵対しない。

いかなる自分であっても、その自分を本当に確かな自分として生きていく。そういう私に成ったということ。

弥陀三尊 臼杵石仏

自在人・満足大悲の人

いつでも、自分が自分であることができる。

いかなる人との関係においても、その人のことを自分自身のこととして受け止める。

そんな生き方が始った。

いのちみな生きらるべし

自分一人が仏(陀)に成ったのではない。

私が縁起の法に目覚めたということは、この世に生きるあらゆるものも同時に佛に成ったということ。

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一切衆生悉有仏性

自分に反対するものの中にも法(真実)が働いていることを認める。

そんな眼(まなこ)が自分の中に開かれた。

もはや何者をも、「死」さえもおそれる必要のない「生」を得た。

生死一如・自他一如

善友告げて言わく、

「汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべし」と。

かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、
十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。

仏名を称するがゆえに、
念念の中において八十億劫の生死の罪を除く。

『仏説観無量寿経』より

「下品下生」の段

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