王舎城の悲劇(3) 講師 中川皓三郎先生
□95年3月、4月の講話より(第3回、第4回) 観無量寿経 と 現代の課題 |
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○私達『他人(ひと)をねたむ』ということがありますね。 『ねたむ心』というのは、他人のすばらしさを手放しには喜べないという心です。そこには自尊心(自分を優れた者だとする思い込みの心)があるのです。 ○結局、『ねたみ心の人』とは、人と人との比較の中で生きておって、自分が勝った、自分が負けたということにかかりはてている人なんです。
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○一回も本当に頭を下げたことのない人です。自分の上にあるものを認められない、自分が一番でなければ落ち着けない心の人です。 ○でもこれは、単にその人に限られた問題なのではなく、近代、そして現代という時代の中で、人間全てが陥っている問題なんです。 ○ルネッサンスを通して、人間がその理性によって神からも、国王からも、自然からも解放されて、人間が一番エラくなった。そして、その事によって今、人間が苦しんでいる。
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餓鬼草子 伺便餓鬼 |
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観無量寿経のなかで、ダイバダッタという、釈尊のいとこである方が表現しているのは、この問題ですね。 |
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―――――――――――――――――――――――――――――― その時に王舎城に一人の太子あり、 阿闍世(アジャセ)と名付けき。 調達悪友(チョウダツあくう)の教えに随順して、.... 『仏説観無量寿経』より (註)調達とはダイバダッタのこと
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○人間は有限なものとしてこの世に生まれてきたものであって、絶対なものではない。 ところが、私達はそのことをなかなか認められない。どこまでも自分(の考え)を絶対的なものと思いなすということがある。 そして、それもまた、単に一個人に留まるものではない。例えば、日本では戦前「日本は神国、天皇は神様」と言ってきた。そんな明らかなウソが見抜けなかったんです。 |
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餓鬼草子 食水餓鬼 |
○少し前まで、学校の卒業式には『仰げば尊し』を唱いました。”身を立て名をあげ、やよ励めよ”と。 この世間にあって、立身出世を目標に生きることが、この世で幸せになる生き方なんだ。と『教え』ているわけです。 既にこの世に生を享けているということの中には、もう私自身『真っ白』なわけではなく、無意識に、日本の、現代の、「こう生きることが幸せになる道だ」という『教え』を受け、その『教え』を生きているということがあるのです。
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○先日「嫌いな人と関わらなければならないのだが、どうすれば良いですか」と質問されたことがある。 私達は他人を見たとき、だいたい自分の眼で「こんな人だ」と決めつけ、思い込むものです。 が、よく耳を澄ますと、その人のいのちの響きがあるはずです。 例えば、「嫌いや」と言われると、私達はその言葉にこだわって、もう聴けないんです。その言葉を通して語ろうとする、その人の心が聴けないんです。 |
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―――――――――――――――――――――――――――――― この時代(現代・五濁悪世)において、 自ら悟れるようなエエもんではない。 |
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