ゴータマ・ブッディズムの生活(23)

 

 

3つの真理(三法印)


釈尊が見出された「真理」は主体的真理であって、
対象的に分かるものではなく、
自らそれと一つになることによってうなずかれるものであるが、その目印(てがかり)として示されている言葉が三つある。

それが、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」で、古来これを三法印と呼んでいる。

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「諸行無常」。諸行は、私たちの全ての経験。
私たちの一切の経験は、これこそ永遠のものだと固執すべきものなど何もないということである。
これが本当の意味の「有限」である。

「諸法無我」。それは何処からくるかというと諸法は無我だからである。

諸法とは一切の存在。無我とは自体が無いこと。
だから諸法無我とは自体なく存在するということで、あらゆる物事は条件的存在であるということである。

例えば、私たちはよく「ごちそうが食べたい」と言うが、「ごちそう」それ自体は無いのであって、健康な空の胃袋を条件として「ごちそう」は成り立ってくる。

同じように「親」に親という自体はなく、子どもが有ることを条件として「親」は成り立つ。

このような存在のあり方を「縁起」(全て縁によって起こる。縁とは条件のこと。)という。

「どんな物事でも条件によって成り立っている。したがってその存在をとらえている経験は無常であって固定的なものではない。

 

 


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「涅槃寂静」

このような「真理」に目覚めて、人間的考え(思い)のいろいろな固執から解放されたあり方を、涅槃という。

これこそ真の人間の解放である。
どれほど動揺する世界、世間の中にあっても、
自分を失わず静かにいることができるのが寂静である。

 


釈尊はすでに世を去って久しいが、
かえって人類の歴史となって、南方、東方にその巨歩を進ませ、
今も私たちの心に、汲めば渇きをいやす清らかな泉となって与えられているのである。

 

――『釈尊読本』より――

住職のひとこと

 

 

2年間、「釈尊読本」を読んできた。今、仏教者、念仏者の姿が、より鮮明になった気がする。

釈尊は、この世間を生きる私達の具体的なあり様を説かれ。
親鸞は、そのことは当然のこととして、さらにそのあり様の質を問われたのだ。

 

今回が「ゴータマ・ブッディズムの生活」の最終回です。

 

 

 

 

 

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