ゴータマ・ブッディズムの生活(22)

 

 

自己に目覚める


人間は、何かに頼って生きようとするものである。
それが宗教的な形を取れば、神とか人間を超えた不思議な力とか、時には狐や蛇まで拝むことになる。

だから宗教というと普通一般には何かを信じ、その何かに救われるように考えている人が多い。
それが思想の形をとるとイズムとかイデオロギーに頼る。
さらに世俗化すると、財産や地位に頼り、あるいは親や子や他人に頼ることになる。

それら全て「それは頼りになる」と考えた、その考えに頼っているのである。
しかしそれでは本当の意味の独立とはいえず、奴隷的なものになりかねないのではないか。

 


八相涅槃図
広島 浄土寺

釈尊が「他」と言われたものは何かというと
「人間の考えたこと」につきる。

神の有る無しを論ずる有神論、無神論のどちらが正しいかは決められないが、
どちらにせよ、そう「考えている」ことだけは事実である。

イデオロギーでも財産でも親でも、それが頼りになると考えたからであって、すべて「思い」にすぎないのではないか。

さらにそれらは「外」のものだが、「内」にも「他」がある。


考えた自分、それは本当の自分ではない。
そういう考えた自分を主張したり守るために、それに応じていろいろ外に他をつくり、それに頼る、そして縛られるのである。

仏教が、いろいろな宗教や思想と違うのは、何ものにも頼らず、自己に目覚めるという一点である。

人間は自分がないから何かを頼る。
でもその何かは、実際は頼りにならない。
だから、一層、頼りになるものを求めて迷う。これを繰り返す。

本当は何ものにも頼る必要のない自己に目覚める。それだけである。
だから私たちは釈尊に救われるのではない。釈尊に救ってもらう必要のない自らに目覚める。それが釈尊の教え、仏教である。

他に頼らず、自らに目覚める。それは「法」があるからである。
「法」とは私自身がそれによって成り立ち、支えられている真理。そして、真理に至る道のことである。

――『釈尊読本』より――

住職のひとこと

 

 

例のオウム真理教事件の麻原被告の裁判が延々と続けられていることを、ラジオで言っていた。
もう終わったように思っている私達に、それこそ『ガツン』である。

その裁判を今も信者達が傍聴に来るのだが、その理由は、裁判を支援するといったことではない。麻原教祖の近くに居ることによって、『パワーがもらえる』からだというのである。

その主体性の無さは、もう言う言葉もないが、決して彼らだけが特殊なのではない。

形を変えた教祖の奴隷となっていることがないか、じっくり観てみたいものだ。会社とか、家とか、宗門とか、世間とか。

 

 

   

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