ゴータマ・ブッディズムの生活(21)

 

 

釈尊最後の説法

 

45年にわたる遊行の後、パーバー城において病をえた釈尊は、さらに進んでクシナガラの沙羅双樹の林に入り、阿難ら仏弟子たちへの最後の説法の後、涅槃に入られた。釈尊80才、西紀前486年2月15日のあけがたであった。

 

――『釈尊読本』より――

木造涅槃仏像    香川 観音寺

 

阿難よ、私は内も外もなく法を説いてきた。如来の法には弟子に隠すというような秘密は何もないのだ。
されば阿難よ、汝らはここに、

   自らを燈明とし、自らを依り所として、
   他人を依り所とせず、法を燈明とし、
   法を依り所として、他を依り所とせずして住するがよい。

阿難よ、比丘たるものは、身について身を、また、感覚について、心について、さらに法について、それらを熱心に観察し、怠けることなく、憶念して忘れず、ひたすらにこの世において、貪る欲と憂い悲しみとを排除しなければならない。

かかる者はまことに、阿難よ、今においても、また、わがなき後においても、わが比丘たちの中において最高の者である。

 

住職のひとこと

 

 

 

いよいよ釈尊涅槃の場面、最後の説法である。

仏教の究極とも言える、いわゆる『自燈明』、『法燈明』の教えがある。

一般に、何か宗教というと、自らの外にある何かに頼ること。

特に、何か困ったことや自分にとって都合の悪いことが起こったときに、助けてもらうもののような印象があるのではないか。

しかし、仏教は、そんな私達の思いを粉々に打ち砕く。
ある種冷徹と思える程の透明さである。

孤高に堂々とそびえ立つ山がイメージできる。

そのような、どこまでも真実(法)に依って生きようと決断した私を拠り所とする真の独立者の誕生である。

 

 

 

 

 

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