ゴータマ・ブッディズムの生活(20)

 

道を求める心

 

釈尊は、その教えに帰依したコーサラ国の長者スダッタの請いにしたがって、コーサラに教化の旅をのばした。
その首都舎衛城はバラモン教の中心地であり、種々の摩擦があった。

このときスダッタは、一面に敷きつめた黄金と引換えに園林を買い取り、そこに精舎を建てて釈尊に寄進した。
すなわち、祇樹給孤独園精舎(祇園精舎)であり、後に釈尊がもっともながく滞在されたところである。

――『釈尊読本』より――

説法するブッダ  ガンダーラ パキスタン

 

仏伝では、釈尊がしばしば王侯貴族や富豪に招かれて、供養を受けたり、僧院の寄付を受けたりしておられる。

一見、権力者や実力者におもねっておられるように感ずる人もあろうが、決してそうではない。与えられれば拒まれなかっただけである。

世に、権力者や金持ちを目の仇にする宗教者も数多い。それが一般民衆の味方であるように思う人もあるが、釈尊はただ区別をつけられなかっただけである。

貧困の人をあわれむのも、金持ちを憎むのも、やはり人間の心である。釈尊のさとりの眼からは、すべて人間として哀れなのである。

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釈尊の生い立ち(釈迦族の王子)は、仏教に大きな影響を与えたように思われる。

幸不幸というような人間の物差しをはるかに越え、権力や財産があろうとなかろうと、ひがみや恨みもなく、人問を平等に包むおおらかな教えが生まれてきた。

力の有無や財の有無は、あらわれた形であり、そんな形をもってあらわれている人間自身こそ大切なのである。

問題は本当の自分の願いに答えて、道を求めるか求めないかにある。
だから道を求める者は、その状態のいかんを問わず大切にし、権力や財産のために、大事な自分を見失うことのないよう、真の人間を実現するよう、教えていかれたのである。

 

住職のひとこと

 

 

 

 

お寺は、やはり豊かだと思う。
金銭のことを言っているのではない。何より、広い場所がある。

最近、何軒かのお寺を尋ねたが、どこも大きい場所を持っていた。

それが「ぜいたくで良くない」と言うのではない。
「それをどう生かしているのか」ということだ。

熊本のある寺では、若い人達が何人も寝とまりしていた。
大分のあるお寺では、研修会が開かれていた。

誰にとっても、力でも財でも、要は、それをどう生かすかなのだろう。

しかし、人間は、まま、それを手に入れ、守ることにかかりはてて、生かして使うことを忘れている。

 

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