ゴータマ・ブッディズムの生活(19)

 

宿縁とどめ難し

 

釈迦族に深い恨みをもつ舎衛城のビルリ王は、釈迦族を攻めんとした。
それを聞かれた釈尊は一本の枯木の元に座ってビルリ王を待たれた。
王は釈尊を見て申し上げた。
「他によく茂った樹が沢山ありますのに、なぜ枯木の下に座られるのですか。」

釈尊は静かに答えられた。
「王よ、親族の陰は涼しいものです。」

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ティローッタマーを争うアスラの兄弟
パンテアイ・スレ楼門 
アンコールワット

 

ビルリ王は釈尊の意中を察し、軍を返した。同じ事が三たび繰り返された。しかし四度目、遂に王は釈迦族を攻めた。釈尊は『宿縁とどむるべからざること』をみて、静かに法を観じ、精舎に留まり、釈迦族を助けには行かれなかった。

 

釈迦族の滅亡に対してとられた釈尊の態度は、非情に思えるが、実はそうではない。

「親族の陰は涼しい」という言葉に、人間としての切々たる愛情と痛みがある。
だからこそビルリ王に三度も軍を返させたのである。
「三度」というのは人間努力の限界をしめしている。

人間に無限の可能性を夢見る現代人には判らぬかもしれないが、人間の努力には限界がある。

それは、努力を否定して、どうせだめなのだと放棄することではなく、かえって限界まで努力し尽くすことである。

「やればできるんだ」とか「どうせできない」という言葉は、本当には、やっていない人の言葉であろう。

釈尊が止めることができたのも、ビルリ王が思い止まることができたのも三度までだった。
四度目の進撃は、釈尊に止められて引き返した決意よりも、もっと深い宿命的な決断であろう。

それはもう人間の思いで阻止できぬ本能的な決定を示している。
釈尊は、どうすることもできない釈迦族の滅亡と、ビルリ王の、意思よりも深い行動、そういうものに現されている全人類の悲劇を深くかみしめられた。
そして、目覚めた真理こそが永遠であり、唯一の道であるという新たな決意に立ち上がられたのである。

釈迦族はあえなくも滅ぼされた。が、その中から生まれた教えは、かえって、滅ぼした人々のすべてを教化し尽くしたのである。

――『釈尊読本』より――

住職のひとこと

 

 

 

 

親鸞の浄土真宗は『他力』の教えである。

が、時々、その言葉が自らの人間としての責任や行動を放棄する意味で使われることがあるのは、悲しいことである。

何かに熱心に取り組んでいる人に向かって
「あれは自力や(からアカン)」
と言ってみたりする。

誠に残念である。

『他力』とは『仏の本願力』である。

「阿彌陀佛の本願を私の願いとして生きよう」
と自力を尽くすところに初めて私に与えられる力である。

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