ゴータマ・ブッディズムの生活(18)

 

自らその意を浄めよ

舎利弗、目連の二人は、釈尊によって具足戒を受け、弟子のなかの上座として敬われた。
しかし、そのために古参の比丘たちの間にさまざまの不平がおこった。
釈尊はこのことを知りたまい、偈文をもってお説きになった。

  もろもろの悪をなすなかれ
  衆(おお)くの善を行え。
  自(みずから)の意(こころ)を浄(きよ)くすることこそ
  諸仏の教えなれ。

                      「釈尊読本」より

 

舎利弗像
京都 大報恩寺

 

仏の道は何も特別の道ではない。
本当の人間として生きる道である。

悪は人間を傷つけ、善は人間を養う。
「悪をなすな、善をなせ、人間らしく生きよ」。
きわめて当然の教え、何でもないことである。

しかし、意外に当然のことができにくい。

どんなに小さい、浅いことでも深い心に支えられなければ、それを真になしとげることは不可能である。

その深い心とは、浄い心である。
「自らその意(こころ)を浄(きよ)めよ」。

誰も言わぬ仏の教えであり、
誰もが願って誰もなれない理想を、真に実現する道である。

 

善と思える悪がある場合もある。

主義に固執するとそれによって善悪の基準が変わってくる。
善を旗印に、いたずらに争うという悪を犯す場合も起こってくる。

人間はいろいろのことを考える。
考えることは結構だが、固執すると主義になる。
その意は必ず我執であり、ものごとを客観的に見られなくなってくる。

あらゆる固執を排除し、どこまでも事実を事実として見極めていく。
これが「自らその意を浄める」ことである。

 

 

目連像
京都 大報恩寺

 

住職のひとこと

 

 

 

 

『善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり』

歎異抄にある親鸞の有名なことばである。
が、このことばでもって、
「善でも悪でも、どうでもよい」
と私達が言ってしまったら、それは大変である。

「善をなそうとし、悪を廃そうとする」ことなど、ごく当たり前のことなのである。

ここで親鸞が問題にしたことは

・善行をしているからといって、偉ぶっている私達のあり方
・世間の善悪の価値観を確かめもなく、鵜呑みにしている私達の意識
・本当の善とは何かという問いかけ

といった、私達の生き様の『質』を、どこまでも問うてゆくことなのである。

 

 

 

 

 

瑞興寺のホームページ       ゴータマ・ブッディズムの生活の目次

                 次のページ