ゴータマ・ブッディズムの生活(17)

 

真理(法)にしたがえ

         

千人の仏弟子をひきつれ、釈尊がマガダ国の首都、王舎城に至ったとき、国王、頻婆娑羅は、深くその教えに帰依した。

そして頻婆娑羅が釈尊に寄進した、竹林精舎において釈尊は説かれた。

「比丘たちよ。たとえば比丘が私の衣のすそをとって後ろに従い、私の足跡を踏んでいても、
彼が欲深く心乱れているならば、彼は私から遠く隔たっており、私もまた彼から遠く離れている。

なぜなら、かの比丘は法を見ず、法を見ぬものは私を見ぬからである。

また、たとえ、その比丘が私から百里離れていても、もし彼が欲を離れ、正しい心でいるならば、彼は私のすぐそぱにいるのである。

なぜなら、彼は法を見、法を見るゆえに私を見るからである」

                    「釈尊読本」より

 




薬師如来像
奈良 新薬師寺

幸福を求めるのは、人間の常である。
しかし幸福な環境は望ましいものであっても、いつまでもというわけにはいかない。

幸福にはたえずそれを失う危険がせまっている。
たとえば若さはいずれはなくなるし、ごちそうはあっても食べられなくなり、いろいろな所へも行けなくなってくる。
財産も名誉も未来永劫のものではない。
転落は幸福の運命である。
だから不幸な人も悩んでいるが幸福な人もおびえている。

 

幸福はたしかに不幸よりはよく思える。
しかし幸福もついには安らぎの場所ではない。

そんな世間の幸、不幸のどちらであろうと、
真理(法)を聞き、真理に目覚めるなら、
それが何ものにもゆらぐことのない大安心なのである。

真理以上に人間をささえるものはない。釈尊はこの真理を尊ばれた。
これを得た人間は自分をとりもどし、これを失えば自分を失う。

何よりも大切なのは真理であり、それを見出してこそ、自分が生きられるのである。

それゆえ、釈尊は自分を尊ぶ弟子よりも、法を尊ぶ弟子を真の弟子として「私にしたがうよりも真理にしたがえ」と戒められた。

実に一点の混乱もない正しい道を示していかれた。
全ての人の教主としての釈尊である。

 

住職のひとこと

     

 

こんな言葉を紹介すると、「それなら、真理って何や」と聞かれる。

人間として当然の問いかけだろう。

一言で言えるなら、事は簡単だが、いわく言い難し。
だからこそ、お釈迦さまも「八万四千の法門」と呼ばれるほどの多くの経を説いておられる。

言えることは、「真理あり」と言い切って
「共に、それが何か、尋ねていきましょう」ということだ。

 

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