ゴータマ・ブッディズムの生活(16)

 

釈尊と迦葉

 

 

 

 

 

釈尊はウルベーラ迦葉の火室に一夜の宿を求められた。
迦葉は、火室の毒竜の恐ろしさを説いて断ったが、釈尊は強く宿を求めた。

はたしてその夜、窓から炎があふれ出た。
人々が、釈尊はやはり毒火に焼かれてしまったと思っていると、翌朝、釈尊は毒竜を鉢の中に入れて静かに皆の前に、姿を現わされた。

釈尊はその後も、幾度も彼らの試みに打ち勝たれた。

迦葉は釈尊の御力に驚きながらも、なお
「この大沙門も自分には及ぶまい」と思っていた。

やがて釈尊は迦葉を叱咤して言われた
「汝は聖者ではない。聖者に至る道を見出してすらおらぬ。汝の教えは聖者になる道ではない」
迦葉はその威徳ある言葉にたちまち心晴れ、思わず釈尊の前にひざまずき、御足を拝んで釈尊のもとに出家することを願った。
                      「釈尊読本」より

 




石造浮彫宝輪礼拝図
パールフット出土
カルカッタ インド博物館

人生のあらゆる出来事を、ただ合理という尺度だけで計ろうとする人には、
おそらくこの毒竜の物語はおとぎ話ぐらいにしかうけとれないだろう。

しかし世の中はすべてが合理では包めない。
合理で割り切ろうとするから、かえって奇跡に驚くのであって、
そんなこともあると知っていたら何も驚くことはない。

平素なら自分の力では及びもつかぬものを、とっさに運びだした人もあり、
精神や肉体の鍛練によって、私たちの思いもつかぬことを、できる人もある。
インドのヨーガなどもその一種で、釈尊の頃にも非常に盛んであった。

 

ただ大事なことは、それは本当の宗教とは何の関係もないということである。
宗教の真の目的は、自分に目覚めることである。釈尊が迦葉をしかられたのは、目覚めていないという、この一点である。

人を驚かすことができても、それが本当に汝のためにならねば、いったい何になるのかということである。
人間はどんな力を持っていても、目覚めがなければ、かえってその力が自己を殺すこともある。

それを見抜いてしかられた釈尊もさすがだが、その言葉を聞いて翻然と自らの非をさとり、道を改めた迦葉もゆかしい。

人間というものは、力を持ったり、尊敬が集まったり、地位ができたりすると、なかなか方向転換できないものなのである。

住職のひとこと

 

 

 

 

お参りに行くと、占いの好きな方と出くわすことがある。
「よく当たる占いです。私は夫と相性が悪いのです」と。

でも「チョット待ってよ」と思う。
「相性が悪いから別れる」のなら、それもひとつの選びだが、

私達に肝心なのは、
『それで、どう、今、選択し、どう歩みだすのか』ということだろう。

当たるか当たらないかが問題なのではなく、
「占い」という情報を糧(かて)として『それでどうやねん』なのだ。

 

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