ゴータマ・ブッディズムの生活(14)

 

ひかりの人

鹿野苑での初転法輪より、入滅までの四十五年間、釈尊は雨期三カ月の安居(あんご)をのぞくほかは各地に転々と教化の旅をつづけた。その足跡から、蓮華の花が開くように正しいさとりの人が続々と生まれた。

それは、広く婆羅門、王侯貴族から、娼婦・除糞人・非人などにまでおよんでいる。

――『釈尊読本』より――

 

 


仏頭 興福寺

民主主義の三原則として、自由・平等・博愛ということがあげられているが、こういうことは人間が生きていく上に、きわめて当然のことがうたわれているにすぎない。

しかし、それを実現する立場がなかなかみつからないというところに問題がある。言うまでもなくその立場はどこまでも人間にある。

人間というものは、浅くも深くもとらえられるものてある。

たいていは人間の考えた人間しか分からないのであろうが、人間は人間の考えているよりももっと深いものである。

自分は自分の考えているよりももっと深いものだ。

深いものということは、知識や感覚や意識ではとらえられぬもの、形のないものである。

形のないものこそ、あらゆる形のもとである。
それを仏教では如(にょ)という。

人間としてあらわれているそれ自身は形のないものである。
私としてあらわれている私自身は形のないものである。

あらわれたものはさまざまな差別があるけれども、あらわしているものは形をこえて平等である。

ここに釈尊が当時きびしい階級制度に縛られていた民衆にむかわれる立場があった。

四姓の平等を真に実現された人は釈尊だけであったが、それを声を大にして叫ばれなかったのは、もう既に実現しえたからてある。

問題はそれを実現しうる立場こそ大事であって、それがなければ声が高いいことに終わる。できぬ時ほど声が高いのが世の原則のようであるが、本当に実現している時はきわめて静かであり、折りにふれて平静にさとされていたのである。

住職のひとこと

 

 

 

親鸞は29歳のときに、比叡山を降りて京都の吉水におられた法然上人の門下になられた。

そこでは、もちろん専修念仏の学習にはげまれた。

が、その教学や論理といったもの以上に大きかったことは、そこには、多様な人達を集わしめる何かがあった。

人間の作る「枠」を破る何かが在る。
それを親鸞聖人は「ひかり」と呼ばれた。

 

瑞興寺のホームページ       ゴータマ・ブッディズムの生活の目次

                 次のページ