ゴータマ・ブッディズムの生活(13)

 

法を説く(2)

法を説くといっても、自己の主張を他に認めさせようとか、他を仲間にひきいれようとか、そういう不純な動機ではない。

法を説く動機は、かならず大慈悲なのである。

さとりは自らに関係しているが、説くのは他に関係する。

他のために説くということは同時に、かならずそれに対応して聞くということがある。

聞くとは、他の言葉を聞く。説法とか聞法は、いずれにしても他と関係する。

その媒介となるのは言葉である。さとりは説くことはできない。そのままそれを言葉に表現することはできない。

説けぬものを説く。そこに法を語ることと、いろいろのことを語ることとのちがいがある。

したがって、聞くものは聞けぬものを聞くのである。

聞けるものだけを聞くなら、言葉を聞いたことになり、話を理解したことになり、それでは聞いてもさとりにはならない。

――『釈尊読本』より――

 

 


釈迦如来像 東大寺戒壇院

言葉というものは人間にとって、私達が考えているよりももっと重要なものである。

物事を考える場合には、かならず言葉で考えるからである。言葉が基礎である。

他の動物とちがって、人間の経験はかならず言葉で経験する。だから、言葉的経験と人間的経験ということは同じことである。

それほど言葉と人間は密接である。

したがって、言葉を多くもつということは、人間をいよいよ多弁浅薄にする。

つまりいろいろなものにとらわれることが深くなるのである。

しかし今言うさとりというもの語られる言葉は、通常の言葉のなかにあってまったく異質的な言葉であって、人間をあらゆるとらわれから解放し、仏にめざめさせる言葉である。

言いかえれば、迷った人間から本当の人間に目ざめさせる言葉である。

そういう意味で、私達が言葉によっていよいよ固めている迷いを破り、真実に直接ふれさせるような言葉である。

言ってみれば、言葉のなかに仏の聖智がはいっているとでも言ってよい。

それが、法を説くという意味であろう。

住職のひとこと


「真理」そのものは言葉ではないことは、よくうなずける。

お釈迦さまが気付かれた「真理」を、何とか力を尽くして言葉で表現されたいわば論理体系が「仏教」であり、その事こそが「神道」などと比べたときの「仏教」の健康さである。

言葉の理解ではなく「真理」を求めんとする場に身を置き、人に出会うことでしか伝わらないものがある。

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