ゴータマ・ブッディズムの生活(11)

 

初めて法を説く(初転法輪)

 

釈尊の見出された内観の道は、人類の歴史上まったく新しい道であった。
 同時に釈尊のさとられた真理ば、私たちが何かを知るというような知り方ではなく、自分が自分になって知る、いわば真理と自分が一つになるような知り方である。

たとえば、水は液体であるとか、冷たいとか、HOであるとかいうのも水を知ることであろうが、かわいた口で水を飲む、これは水と一つになることである。
 おいしいといっても、どうおいしいのか言えぬ。しかし分からぬのではない。分かる分からぬ以上に、水を知ったことである。

こういうのを自覚自証という。こういうものを得て、釈尊は数週間(多くは、四週間といわれている)自ら見出した真理を内心に味わいながら、自ら楽しんでおられたといわれる。


釈迦如来像 京都・峯定寺

仏伝によると、この間に釈尊の心の中には深い苦悶があったことが伝えられている。

得た道が一切の人々の道にならなければ、本当の道とはいえない。

しかし、釈尊は考えられる。
「わたしがさとりえた真理は、貪り(むさぼり)と瞋り(いかり)に悩まされている人々が了解するにはあまりにデリケートであり、世の流れとは反対であり、いろいろのことを考える対象的な考え方ではさとりえないものである。
たとえ説いても、ただいたずらに疲れを増すのみではなかろうか」と。

 

数多い仏教経典のなかには、法を説けという請いに対して、それを拒んで説かないというような場合がよくでてくる。
 これはなにも、知らないからとか、意地悪というのではない。

意識的に聞こうとする心、何かを知ろうとする心、そういう心には説いても分からず、分からぬどころか、誤ってうけとり、かえって迷うという危険もあるからである。

かといって、説かぬのは不親切である。しかし説けば誤解される。ここに難問題がある。
 しかしこの難問題をあえてふみきるのは、世の人々の深い願いを自己と感じた釈尊の、やむにやまれぬ深い慈悲であったのであろう。

住職のひとこと

 

本(書物)で仏教に触れておられる方は多い。
とても深く
っておられる方もおられる。
でも、共通して何か足りないなと感じる。
どことは指摘しにくいけれど。

 

に会ってほしいなあと思う。
師の話しを聞いてほしいなあと思う。
すぐに頭で結論を出すのでなく、少なくとも1年間くらいは食いついてもらいたいなあと思う。

 

瑞興寺のホームページ         ゴータマ・ブッディズムの生活の目次

                  次のページ