ゴータマ・ブッディズムの生活(9)

 

成道(本当の人間に成る)

ゴータマシッダールタ(お釈迦さま)はビッパラ樹の元にあって、かぎりない魔の誘惑と戦いつつ、

老・病・死のもとは何かと内観の道をすすめ、

ついに苦の根である無智をやぶって、永遠の真理に目覚めた。

時に紀元前531年12月8日、35歳。ゴータマ・シッダールタは仏陀(目覚めた人)となった。

『釈尊読本』より

 

釈迦像
 奈良 法隆寺蔵

「原色日本の美術2」
小学館刊

仏とは、智慧をえて真に自分に帰った人である。

この人類の史上に、はじめて前人未踏の内観の道を完成し、自ら仏になってこの道の確かなことを証明したのが釈尊である。

言いかえれば、人類がはじめて仏をもつことができたのである。

人間以上の、神とか、不思議な霊力とか、そういうものにたよらずに、

自らを見つめ、吟味し、徹底的に考え見きわめることによって、本当の自分に目ざめるとともに、一切の問題がすべてそこから解決されるという、自覚の道が明らかにされたのである。

この道は人間を、何ものの奴隷にも、何ものの僕(しもべ)にもせず、真に独立させる道である。

何かによって解放されるなら、かえってその何かに縛られることをまぬがれない。

何ものにもよらぬから何ものにも縛られず、自分で自分の始末をつけていくことのできる道は、自覚以外にはない。

この自覚を発(おこ)して独立した人を仏と呼ぶのである。

この地上にどれだけの人間が生まれ、死んでいったであろうか。

その億々の人間の中で、仏になった人は釈尊ただ一人である。

数からいえば億々分の一、まことにわずかな存在である。しかし、一人で十分なのである。

億々から一人を見るとわずかで、とるにたらぬようであるが、一人から億々を見直してくると、そこに深い意味がでてくる。

つまりゴータマ・シッダールタが仏になったことは、一切の人類が仏になりうるということを証明したことになる。

人間というものは自分を失って迷うものである。

と同時に、迷いを破って目ざめることのできるものでもある。

こういう人間存在の深い意味を改めて見直すべきであろう。

 

視 点

 

「仏教」は、ふつう「仏陀の教え」と読まれる。

が、また「仏に成る教え」と見ることもできる。

「私にも、かすかな可能性がある」ということだ。

だから、仏教では人間のことを『機(き)』と呼ぶ。

機会(きかい)という言葉でもわかるように、まさにチャンス。

変わることのできる存在と押さえている。

 

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