ゴータマ・ブッディズムの生活(8)

 

魔 魔 魔....(続)

 魔はさわりであるが、そのさわりは何から起るのであろうか。

 たとえぱ、何かしなければならない大事なことがある。それがなかなかできない場合、
 たとえできる力はあっても踏みきれないとき、そこには、
  まあそんなに急がなくても とか、
  そのうちどうかなる とか、
  とてもできないだろう とか、
  誰もやらぬから とか、
いろいろの思いにさまたげられている自分がある。

結局、さまたげは思いにすぎない。

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邪鬼像
 奈良 東大寺蔵

「原色日本の美術3」
小学館刊

しかし、さらに考えてみると、思いだけなら別にさわりにはならない。

人間はいろいろのことを思うが、その思いについて固執がともなう。

自分の思いを間違いないものだと握ってはなさない。

すなわち、思いに縛られふりまわされてくることになる。

だからさわりのもとにはかならず執着があるといえる。

そしてこれが一切のさわりの根本である。

邪鬼像
奈良 東大寺

「原色日本の美術」
    小学館刊

 

云何なるをか
慧と為す

所観の境に於て
簡択するを
性と為し

疑を断ずる
業と為す

世親『唯識三十頌』より

 

 仏教では、あらゆる迷いの根を無明(むみょう)どいうことぱであらわしている。

  明とは智慧(ちえ)のことで、
     いろいろのものがわかる力を光にたとえて明という。

  無はそれがないこと、
    智慧のない状態である。

 しかしこの智慧は、いろいろのことを分別(ふんべつ)する知識とは厳重に区別されている。

 この場合の智慧は、いろいろのことを知るのではなく、自分を知る智慧なのである。

 

『釈尊読本』より

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視 点

 

 「執着だ」と言われると、私達はすぐに、「執着しないようにしよう」なんて思ってしまう。

 同じように、『腹を立てないでおこう』なんてことも思いがちだ。

 昔、仲野先生がこんな話をされていたことを思い出す。

 「『私は信心のお陰で腹が立たないようになりました』なんてことを言うバアサンがいるが、あんなウソつきはおらん」と。

 「それが証拠に、ワシが『何も見えとらん。大ウソツキや』と言うたら、『それでも坊さんか』と怒りよった。」と、笑っておられた。

 「できるもんやない。けど、『執着や』と教えられることを通して、
 『ああ執着しとるなあ』と気付かせて頂けるんや」と。

 

 

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