ゴータマ・ブッディズムの生活(7)

 

魔 魔 魔....

 いつの世にも、およそ人間の存在するところには、魔がはたらいている。

 魔などは未開野蛮、文化の光のささないところにだけしかいないと考える人もあろうが、そうではない。未開野蛮なところにだけあるものならば、獣類などにも魔があるはずだが、人間だけにあるのは何故だろうか。

それに、魔は時代によって姿をかえる。人間が文化的になれば、魔もそれに応じて文化的になる。電子占いなどが現れてくるのもそれである。 

 

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邪鬼像
 奈良 東大寺蔵

「原色日本の美術3」
小学館刊

 

無ければ無いで苦しみ

あればあるで苦しみ

ひたすらに欲のために

心を使って

安らかなときがない

 

 

 

 

 

 

 

 名誉とか財産とか権力とか、そういうものを得ることだけが本当のしあわせだという考え、その浅い考えに人間をひきもどし閉じ込めようとして、本当の自分にかえらせないのが、魔のはたらきである。

うんと勉強して試験によい成績をとって、立派な学校へ進学してということもよいことではあるが、立身出世主義という魔がそういうまじめな行為のうしろでほほえんでいるかも知れない。

科学もその精神を忘れると、便利と享楽の偶像となって、本当の人間を失うような方向にはたらくことになる。

邪鬼像
奈良 東大寺

「原色日本の美術」
    小学館刊

 

もし命まで失うようになれば
全てを捨てて去っていかねばならない
その時には
誰ひとりついていくものはない

 

 魔という外の形で私達をさまたげてくるものは、実は内なる自分の心であると言える。もちろん、私達の人生には、外に誘惑とかいやがらせ、おどかしなど、さまざまなものが取り巻いている。しかし、そういうものに引っかかる心は私自身の側にあるのではないだろうか。

 たとえば、誘惑といっても、きらいなものに誘惑されるということはめったにないといってよい。やはり、好きな心があるから好きなものに誘惑される。いやがらせもおどかしも、いやがる心おそれる心があるからであろう。

『釈尊読本』より

 

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視 点

 

 「魔がさす」ということがある。思いもかけぬ大失敗をそんなとき、やらかしてしまう。「チキショウ、ついてないな」と思う。でも、自分自身をよく見てみると、そんな時はかならず自分がバタバタしている時である。

 何かあせっていて、しなければならないことはできず。どうでもええようなことに追われていて、狭い世界に入ってしまっている。

 立ち止まれ。空を見上げて深呼吸!

 

 

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