ゴータマ・ブッディズムの生活(6)

降魔

 

 

 

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釈迦像
 奈良 法隆寺蔵

 「原色日本の美術2」
       小学館刊

目覚めの時

ゴータマ・シッダールタ(お釈迦さま)は一人、さとりをみいだすまではこの座を立たぬと誓いつつ、ピッパラ樹の元に座した。

六年の苦行によっても解決することのできなかった苦のもとを、いまは他に頼ることなく自己自身においてあきらかにしようと思惟をつづけた。

 彼のこの内観は悪魔の地盤をおびやかすものであった。
したがってそれは、時には手に手に武器をもって迫りくる悪魔の大軍として、時には見るもあでやかな美女の群れとして、そしてまた時には天地もくずれんとするほどの激しい自然の暴力として、シッダールタの内観を妨げるために襲いかかる。

『釈尊読本』より

 

 日本は目立つことを恐れる「横並び社会」と言われる。

が、その社会秩序は、同時に、暴力団、総会屋といった無法者も含んでいる。

なぜなら秩序を支えるものが、『真実』ではなく、『慣例』だから、無法者に対抗する根拠そのものが無い。

しかし、もうそろそろ目覚めの時だろう。

 「これまでやってきたこと・みんながやっていること」を、無自覚に受け容れてきた私達が、
「それは何故か」、「何が本当か」と問い始めるとき―――この日本を覆う悪魔の退散のときだ。

 

    

   視 点

 

悪魔は人間を決していきなり堕落せしめるものではない。悪魔がいつも目ざす第一のことは「妥協」なのだ。
 人は屈伏することを好まない。これを屈伏させる一番いい方法は、屈伏の意識を与えることなしに屈伏させることだ。そのためには「妥協」の観念を発達させることが必要である。
 「妥協」とは自己の理想が完全にうけいれられることではないが、幾分はうけいれられ、いわばその面目が立つという錯覚だ。面目を傷つけることなしに屈伏せしめ得るならば、悪魔の術策としてこれにこしたことはあるまい。「妥協」は悪魔の勝利の第一歩なのである。

 政治は妥協であるという。見事な言葉だ。人の世に生きること自体が妥協であると言ってもよかろう。そのとおりである。しかも非妥協的に生きたという妄想を、一方で悪魔は絶えず注入している。幻影を与えて足をさらうのだ。宗教よりもっと阿片的なのは、現実生活そのものである。

               『釈尊読本』....東本願寺発行

 

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