ゴータマ・ブッディズムの生活(5)

 

釈尊の苦行

 ゴータマ・シッダールタ(お釈迦さま)は、まず禅定主義者の教えを受け、ほどなく師と同じ境地にまで至った。

 しかしそれは一時的に心を安らげる道にすぎないことを知って、つぎに徹底した苦行にはいった。

 苦行六年、身も心もやせ衰えるぱかりで、何も得るところがなかった。

ここにおいてまた苦行の無益なことを知って、
ネーランジャラー河で沐浴し、村娘スジャータのささげた乳粥に、苦行で衰えた体力をようやくとりもどした。

 

苦行の釈迦
ガンダーラ

 『不動の心』

                清沢満之

 

 活動を専要とする世のなかに、不動の心を主張するのは不都合のようであるが、その実は決してそうではない。活動がますますさかんならんとするにはいよいよ不動の心が必要である。

 仏法中には不動明王というのがある。炎のなかに立ちて剣を持ちたる相である。火炎のごとく猛烈なる誘惑に対して、少しも動乱することなく、智慧の利剣をふるうて、万難を裁断するという形状である。

不動明王像
   京都 大覚寺蔵

   「原色日本の美術9」
       小学館刊

 

 吾人の世界はとかく誘惑が多い。吾人の心はまことにその誘惑に動転せられやすい。吾人は色声等の縁に刺激せられて、功名富貴等の事項に奔走することである。

 それはあながち悪きことではないけれども、かくのごとき場合にあたりて、自己の本心を失うようでは動乱といわねばならぬ。
自己には定まれる意見なくして、ただ世間の流行に附和雷同するのは、皆これ不動心の欠乏より生ずる迷乱の行為である。

 吾人は不動の心を確立して迷乱を脱却せねばならぬ。吾人はよろしく自己の胸裡をざるか否やを、審察すぺきである。

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