ゴータマ・ブッディズムの生活(4)

釈尊の出家

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誕生仏像
 奈良 慎悟寺蔵

「原色日本の美術2」
   小学館刊

『出家』の精神

 西紀前537年ゴータマ・シッダールタ(お釈迦さま)は、王宮の生活を捨てて『出家』した。時に29歳であったという。

 当時の出家者の習慣にしたがい、マガダ国の首都 ラージャガハ(王舎城)に行き、真理を求めて修行している沙門たちの群れにその身を投じた。

 

『釈尊読本』より

 『出家』という場合の「家」は、たんなる家庭という意味ではなく、私達の日常生活を指している。

 日常生活の心を仏教では「散心」というが、これは私達の心が散っている状態をいう。あれを思いこれを思い、意識が散る。見れば見たものに、聞けば聞いたことに、考えれば考えたことに縛られ、自分が分散してしまっている。

 そんな日常生活からは何も生まれてこない。生活に方向がなく、ただ、いたずらに流れている。

    

   視 点

 

 もし人間が真剣に考えるなら、こんな生活はかならず問題になるにちがいないはずだが、まあ皆がそうだから、世の中はこういうものだと、ごまかしているのではなかろうか。

 だいたい、人間は何事でも徹底することを好まぬものである。中途半端でいつでも妥協してしまう。それがまた、世渡り上手ともいわれている。

 ほどほどの人生観、常識人。善にも悪にも、右にも左にも、上にも下にも、ほどほどに処していくことによって、自分を守るのであろうが、そんな形で自分を眠らせ欺瞞している。

 気になるけど忘れようとする。

 こうして結局生活全体がゼロになっていく。そんな日常生活に埋もれきって大事な自分を見失っていられない。いさぎよく、

日常生活から出て自分を取り戻そう。

それが『出家』の精神である。

『釈尊読本』....東本願寺発行

 

現実を見据える

まあしかし、「自分を取り戻そう」といわれても、なかなか、そこが難しい。人間は、ずっとやってきたことを『絶対視』しがちで、なかなか『相対化』できないものである。

そこは、親鸞聖人が『歎異抄』で、「いままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生まれざる安養の浄土は恋しからず。」とはっきりおっしゃっている。

が、そこで聖人は「だからしかたがない。」とはおっしゃらない。あくまで「それは煩悩の燃えさかっている姿ですよ。」と押さえられる。

『しかたがない』から『歎異(かなしい)ことだ』への廻心である。

 

 

 

釈尊の出城
カルカッタ インド博物館

 

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