ゴータマ・ブッディズムの生活(2)

 釈尊の歩み

 

 シッダールタ(お釈迦さま)は、国王の跡継ぎとして申し分なく成長した。

 しかし、はなやかな生活の中で、彼はかえって物思いに沈みがちであった。

 ある日、父王のすすめで遊山を思い立ったシッダールタはカピラ城の東門か
ら出たとき、みにくく衰えた老人に出会った。

 またある日、南門から出たとき、路上に、もがき苦しむ病人を見た。

 

 

       

 またある日、西門から出たときには、わびしい葬列に出会って、心暗く帰城
した。

 そして別の日、北門から出たとき、彼は一人の沙門(修行者)に会った。
その気高く安らかな姿に、彼の心は揺り動かされた。

(『釈尊読本』より)    

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 視 点

 

 問題は人間存在の有限性、この世に常住なものは何一つない、そこ
に苦は根ざしている。
しかも、人々はこの無常にあって無常を知ろうとせず、忘れようとす
る。そのために身辺を、いま有るものでますます満たそうとする。

 死は無常をぎりぎりの形であらわしている。
多くの人は無常なものを避けようとし、それを見ぬようにするために、
却って生の充実をはかろうとする。

無常ということは、私たちが好むと好まざるにかかわらず真理である。
真理を見ようとしない場合、人間は妄想に生きるより仕方がない。

現代の社会はこういう人間の妄想を大きな規模であおり立てているた
めに、ますます人間が妄想のなかに引きずりこまれていく。

 たとえば、私たちの住んでいる世界がどんどん商業化して行き、
いっそう便利なもの、いっそう楽しめるものを求めるように、人々が
駆り立てられて行く。

それによって、いよいよ大事な根本問題、すなわち何故生きねばなら
ないのかと言う問題が忘れられようとしてる。

智恵、能力、地位、健康、それに若さ、そういうものだけに頼ること
のできない人間存在の問題を、内面に深く感じた釈尊は、これを切り
開く方向に自らを差し向ける重大な決意を下すに至るのである

 

視 点 2

 

 

私達は本当に物事が見えているのだろうか。

なるほど老人や病人を見たり、死を見たりはしている。
だが釈尊のように、それらを自分のこととして見たことは
ないのではないか。

「お年寄りに、亡くなった人に学びなさい」と、ある先生に
言われたことがある。

「この前の戦争の、例えば大阪大空襲で亡くなった方々の
思いを、大阪の青年達は聞いたことがありますか。」と。

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