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混迷の今に在って

自分自身を確かめたい

永遠の時、

無限の拡がりの中

此処、瑞興寺で

法要(式典+講義)が

執り行われます。

 

シルクロードの茶店で語る和田さん

かけがえのない人生の

たしかな道しるべが

そこにある。

みんなと誘いあって

この寺(瑞興寺)に

お参りしましょう。

和田しげし師のことば(1)

 「お浄土」とは、各自のおもいやはからいで作り上げた世界に閉じこもり、互いに不信と不満と孤独と虚しさをかかえて、てんでんバラバラの世界に釘づけになっていた者が、その世界を写し出す光に出遇い、自己の執心を打ち砕かれ、そこから解放され、思いもかけぬ一如平等の開かれた世界に独立者として誕生した人の驚きと歓びの表現に外なりません。

お浄土は私達の考える対象ではなく、
逆に私達を照らし、曇りなき知見にめざめしめる
お念仏のはたらきとして開く世界です。

すでに「浄土」(清浄なる世界)ということばのあるかぎり、そこに生きた無数のいのちのある証拠です。

ことばは単なる伝達の符号ではなく、いのちの表白です。それを聞き取ることができるのは、こちらのいのちがその国に生まれることを願求して、その呼びかけを待ちかまえて待機しているからです。

古今東西を問わず生きるものすべてが願求せずにおれぬ世界が浄土なら、民族・文化・思想・宗教の如何にかかわらず、

浄土はすでに「願い」となって現前しており
その現前するはたらきを
「アミダ」と嘆じ

それによって一切の虚飾を剥ぎ取られ
全裸の自然児に立ち帰るすがたを
「ナム」と申す

「アミダ」あるところ必ず「ナム」あり、「ナム」するところすでに「アミダ」あり。

「アミダ」(明晰な智慧=ひかり 及び つきせぬ慈悲=寿命)

その「ナムアミダブツ」こそ現前する生ける佛であり、万象の法であり、地上に開かれる浄土(僧伽、さんが)である。

私たち真宗門徒(親鸞聖人の教えを聞こうとする人はみな真宗の門徒です)に今、最も緊要なことは、日々ナムアミダブツを生きる者として、この終末的危機のただ中に身を置いて、自分に何ができ、何をしなければならぬかという御用を頂くことです。

御用とは何かの為にする営為ではなくて、やむをえざる至情の発露であり、願生者の終わりなき実践課題です。実践課題なき信を懈慢(けまん)界にとどまると申されます。

 

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