今、世界は! 

〜年頭の言葉

顧倒 2003年1月号より掲載

  ●<年頭の言葉>

  二〇〇三年の年頭の言葉を書こうとして「相も変わらぬ先の見えない不景気と、それに対し有効で素早い施策を実行できない日本の権力構造。一時、希望が見えたと思われたのに、難航している拉致問題の解決に加え、新たな核疑惑まで大きくなってきた日朝関係。そして世界では、今にもイラクに戦争を始めようとするブッシュのアメリカと、それにイージス自衛艦まで繰り出して応援の姿勢を示さなければならない我が日本の現状。誠に何とも言えない“閉塞感”が・・・」と書き進めたとき、ふと或る事に気付いた。
 それは、今から二〇年以上も前の一九八一年、さあこれから“バブル景気”が始まろうとする時、ちょうど僕は、お坊さんになる為の修行で京都の大谷専修学院に居たのだが、その秋の学院祭のテーマを決める討論会で一番問題になったのが、この“閉塞感”という事だったのだ。
 これはいったいどういう事なのだろうか。バブル景気の間は浮かれていて、その前後で“閉塞感”を感じ ているのだろうか。どうもそうではなさそうだ。人間である限り、実は“閉塞感”を持っているという事で はないだろうか。
 親鸞聖人は「歎異抄」の中で「人間とは“そくばくの業を持ちける身”である」と仰っており、これを、 一般には「それほど多くの罪業を持つ身」と読むのだが、僕は、あえて「束縛の業」と読もうと思うのだ。
即ち「この身体を持って生きるという事は、この身体に縛られている」「時と世を限定されて生きざるをえない我が身」という事ではなかろうか。我が身の事実を直視したとき「多くの罪業」で済まぬ、まさに「縛りつけられている」と言わざるを得ない現状を生きているのではなかろうか。「人間である限り不自由であり、思い通りにならない」それが“閉塞感”の根本なのだ。
 が、そこで親鸞聖人は「諦めろ」と言われるのか、そうではない。「そんな縛られた存在だからこそ、自分でどうこうできるような存在ではないからこそ、あらゆるいのちを摂い取って捨てない永遠無限なる根本の願いが在るのだ」と仰る。その本願を我々に引きつけるとどうなるのか、それは「永遠無限の時と世の一点である束縛の私を観る」事。親鸞聖人は、さらに「卯の毛、羊の毛の先のホコリほどの小さな事でも過去の行いの積み重ねで無い ものなどない」と展開される。
 時あたかも羊年、「羊」の文字は「美」「義」「善」などに通じると言われる。 “閉塞感”に諦めるのでもなく、焦るのでもなく、束縛の自分だからこそ「解放されたい、自在になりたい」と願い、今、此処の私に向かって「あらゆる過去に目を閉ざさず、未来を見通して、願って現在を生きるのだ」と、勧める声に耳を澄まそうではないか。 ・・

  これまでがこれからを決めるのではない。これからがこれまでを決めるのだ
                              
・・・・・・・・藤代聡麿

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