今、世界は!!

狭さ vs アミダなる世界

 

アミダ(阿弥陀);

 

 

インドの古い言葉から来ている仏教用語。
原意「枠が破れる」から転じて、「永遠のいのち、無限の広がり」
「あらゆる 異なる それぞれを 摂取する(すくいとる)広やかさ」
等々を表現することば。

映画『タイタニック』は宗教映画だ

 昨年から話題の超大作映画『タイタニック』を観にいった。私の感想は、

 「この映画は単に大作だとか、主演のディカプリオがカッコイイとかで売れているのではないな。その人気の根っ子には宗教性があるな」であった。そんなことを語っていると、私の友人が「人間をチャント描いているからだ」と言ってくれた。その通りである。

 人間を描くと、それは宗教なのである。

住職よりひとこと

 

 

 

 

 

 

 

映画のあらすじ

タイタニックとは84年前のイギリスの超豪華客船の名。その船が処女航海でアメリカに向かう途中北大西洋で氷山にぶつかって、沈没し、2200人中1500人の命が失われる大惨事が起こる。
 その船に乗り合わせた1等船客で貴族の娘・ローズと、3等船客の貧乏絵描きの卵・ジャックのラブストーリーが、この映画の筋である。

 そのどこが宗教なのか。

 

死に臨む人間

先ず気づくのが、沈没を、「死」を前にした人間の姿である。

 見にくい姿をさらす人。最後までヴァイオリンを弾く楽士。お説教をする牧師。いろんな姿がある。そのどれが善くて、どれが悪いと言っているのではない。そのどれもが人間の姿なのだなあとわかる。

縁さえあればどのような事をもしてしまうのが人間なのである。

価値観への問いかけ

 二点 指摘したい。

ひとつは、科学技術に対する人間の妄信である。

 氷山の発見が遅れたことの根っ子に、「不沈客船」だという思い込みが潜んでいたように思われる。今にも沈みそうな船であれば、もっと細心の注意を払っていたであろう。

そこに人間の問題がある。

 

もうひとつは、人間の階級の問題である。

 映画は、いわゆる上流階級である一等船客のパーティーと、庶民の三等船客を対比して描いている。

 そこに世間的に良しとされる地位や名誉や財産といったものに対して

「本当にそれだけで満足なのか」という問いかけ、

「本当に大切なものは何か」という宗教的な問いかけ

がある。

○―――――――――――――――○

 I can't. I'm involved now.
You let go and I'm.
I'm gonna have to jump in there after you.

 

出会い

ジャックとローズの場合は、船から身を投げようとしたローズをジャックが助けて、出会い、恋に落ちるのだが、そのときの彼の言葉が宗教なのである。

それは、「もう見てしまった」と「どこまでもいっしょに行く」の2つである。が、これは何と、阿弥陀佛を表現する言葉なのだ。

 「もう見てしまった」は「あなたのことは私のことだ」と言い切ったことで、だからこそ「いっしょに」と言える地平がそこにある。阿弥陀の摂取不捨(せっしゅふしゃ=あらゆるものをすくいとって捨てない)という願いそのものである。

 

別れ

そのようにして出会った二人も、船の沈没によって、海に投げ出されて漂流する。冷たい海の中、人々はどんどん亡くなっていく。ローズを板切れに寝かせて、ジャックは泳いでいるが、遂に力尽きる。

最後の言葉は「お前は生き続けてくれ」である。その言葉を胸にローズはジャックの身体を深い海の底に沈め、助けのボートに手を振る。「アレッ」と感じる瞬間である。「何故沈めるのか」。

でも、それは”別れ”たのではない。ローズには「ジャックは私の中に生き続ける」という確信があった。だからこそ、身体を沈め、その後84年間を生き切って、いま、そのジャックと出会うのである。

 キリスト教で言う復活、仏教で言う仏との出会いである。

 

     ―――以上『顛倒』98年6月号より―――

 

 

 

 

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