今、世界は!!
狭さ vs アミダなる世界
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アミダ(阿弥陀); |
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インドの古い言葉から来ている仏教用語。 |
□最近の新聞より転載
追い詰められ逃げ場もなく 大坂市 岸井洋子
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「異なる」こと認めてほしい 横浜市 本田 彩
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長年、子供たち相手の文房具店をしてきて様変わりした今の子供たちを見ていると、栃木で起こった事件は、起こるべくして起こった事件だと思い、背筋がさむくなりました。 店内の試し書き用のメモ用紙には、連日目を覆いたくなるほどの汚い言葉が並ぶ。死ネ、ふざけんな、むかつく、殺してやる…。書いて帰るのは、いずれも小学高学年から中学生の女の子だ。たまに注意をすると、独特な流し目でにらみ返す。あげくに「こんな店、もうこんとこ」。拾てぜりふで出ていく。 うちの子に限ってではなく彼女らは、どこにでもいる普通の女の子たちばかりです。いつのころからか、黙って商品を差し出し、黙ってお金を払っていく。そんな子供たちを見ていると、ナニか怒っているようにも見えるし、ナニか不満があるようにも見える。恐らく成熟した社会の中にあって、何の不自由も感じていないことが腹立たしいのかも知れない。そんな中では、夢などもてるわけもなく、ストレスばかり大きくなっていく。 今、上映されている「タイタニック」の一場面で、上流社会の中で育った十七歳の女の子が、「この先も毎日同じことの繰り返し」と、発作的に海へ身を投げようとするシーンがあるが、今の子供たちにも、これに近い逃げ場のない枠の中での生活が、あっ!と思わせる事件を引き起こすのではないでしょうか。 98年2月4日 朝日新聞より
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「今の子は我慢することの美徳を知らない」。そんな言葉が、大人の間を飛び交う。その度に、何に対する我慢なのかと考え込んでしまう。 中学のころは、三十以上に細分化された服装規定があり、校内に入ればみんな恐ろしいほど同じ格好をし、外見も同じじならば、行動も内申書にどう響くかで限られていた。型に合わせることができず理不尽さにキレたり、「異なる」ということがうまく受け止められなくてキレた友人たちの目を覚えている。 中学では、型にはまって我慢をし、個人が悪くてもクラスの連帯責任として我慢することを教わる。この我慢が、求められている我慢なのか。 私は「異なる」ということを、生徒が、そして教師が、受け止められる数育が大切と思う。個の認識から個の責任、個の責任のための我慢へと、自然につながっで生まれる。 私の中学校の先生が「女が外で働くべきではない」と言った瞬間、途方もない怒りを抑え、反論もせずにうつむいていた自分は偉かったのだろうか。ありのままを必死に受け止めてもらいたかった十五歳だった。 98年2月17日 朝日新聞より
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住職よりひとこと |
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○中学生が先生を刺したり、老人を殺したりといった事件が続いている。一方、自殺も多い。「少年の犯罪もアメリカ並みになってきたなあ」といった意見もあるが、そんな他人事ではなく、私達自身の問題があるように思う。 それは狭さだ。
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○私事だが、学校の狭さ、冷たさを思い知ったことがある。しばらく前、私の子供が「学校がイヤだ」と言い出したことがあり、いろいろ話し合った結果「そんなに嫌いなら、転校を考えてみよう」と学校に相談にいったときのことだ。 「何をどう思っておられるか知りませんが、まともな学校で転校できるようなとこはありませんよ。引っ越しでもされたら別ですけど」
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事実、通信制とか単位制以外で中途入学できるような学校はほとんどないようだ。 『ああ、これほどまでに寄り道は許されていないのか!』 さらに先生は続けて「大学は行かれるんでしょう。だったらガマンして続けられた方が得ですよ」「(学校に)合わないのは(あなたの)お子さんの問題ですよ」と。 もう私には何も相談する気はなかった。 ○この学校や先生だけがどうこうではない。この日本というシステムが問題なのだ。島国根性というか、「和」の精神というか。さらにそれらを強化した明治以降のインスタント人づくりの問題だ。 ○今こそ『バラバラでいっしょ』を支える「広い世界」が願われている。
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―――以上『顛倒』98年3月号より―――
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