歎異抄(50)
私の『歎異抄』----------清 史彦


【私の「歎異抄(たんにしょう)」】
 「歎異抄」とは親鸞聖人の言葉を、その弟子、唯圓さんが聞き取った語録と、親鸞さんの没後、教えに異なる有り様が現れてくる事を唯圓さんが歎いて指摘された部分とで構成された書物であり、親鸞聖人の思想を一番よく伝えている書物とされている本だが、私が初めて目にしたのは24年前の事であった。

シルクロードにて キジル千仏洞に立つ清住職
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【初めて歎異抄に触れる】

 その頃、私は東京での会社勤めを辞めて瑞興寺に帰って来ており、寺を継ぐために「お坊さんの資格」を必要としていた。その時、前住職である義父が「京都に大谷専修学院という学校がある。卒業した者はしっかりした方が多いから、そこへ行きなさい」と勧めてくれた。それで入学試験に必要だからという事で「歎異抄」を初めて手に取ったのだ。
 今思えば、日本の知識人なら必ず読んでいるという「歎異抄」、岩波文庫で「私の愛読書」に必ず選ばれる「歎異抄」を、当時全く知らなかったのだし「浄土真宗の坊さんになろう」としていたのに親鸞の本を一冊も読んでいなかったのだから、誠に不勉強な人間だったと思う。本質は今もあまり変わってはいないが、その時、親鸞の「し」の字も知らぬまま、とにかく読んでみた事を思い出す。
 感想は「驚き」と「謎」であった。「念仏以外に何も要らない」
「善や悪なんか知らない」「私は地獄おちだ」「悪人こそ救われる」「阿弥陀仏は私の為に願いを立てられた」等々、仏教について何も知らなかった、というより、世間の中を、世間の常識を当然の事として生きてきた私にとって、驚くべき言葉が並んでいた。何が何だか訳がわからないけれど「こんな人がこの日本におったんやなあ」という感動と「どんな人か知ってみたい」「これは、じっくり読まなあかんな」という感覚があった事が思いだされる。


【歎異抄を読む“基本”】

  今も、今回「顛倒」に連載したように時々読み直しているが、自分自身の主体の確立というか、全ての世界を内包した「私」という「主体」に気付く事が徹底して説かれていると思う。そして、その「教え」を受ける「私」もまた、それらの「教えの言葉」を「道標(みちしるべ)」として、生きたいと願っている。
 初めて「歎異抄」を読んだ頃、手掛かりにした本は、講談社学術文庫の「歎異抄」−梅原猛校注である。梅原さんの親鸞理解は、特に「還相回向」の解釈とか、ちょっとおかしいなと思える所がある人だが、この本は分かりやすいと思う。特に親鸞ビギナーにとっては、一般的な見方から注釈がされていて受け取り易い。パラドックス(逆説)という言葉をキーワードとして親鸞さんの思想が説明されている。
 1999年3月から「顛倒」で連載するについて、主に参考にしたのは、東本願寺が出している「歎異抄」は当然だが、合わせて、宝島社「For Beginners」シリーズの遠藤誠さんの「歎異抄」である。この遠藤誠さんは、もう亡くなられたが、とてもユニークな弁護士で、法華経と歎異抄に傾倒し、仏教者として弁護士活動をした方である。月一度自分の事務所で仏教研究会を主催し、また仕事としても「悪い人だからといってヤクザの弁護をする人がいないのはおかしい」と山口組の弁護をしたりした方である。この方の独創的な解釈は、とても興味深かった。


【私自身が歎異抄を読む】

  こう見てくると、大谷派に正統的な、例えば曽我量深師の「歎異抄聴記」とか、和田稠師の「歎異抄講義録」などを、あまり参考にしていない事が分かる。それは、生来の不勉強で、あまり難しいものはよく読めなかったという事だが、さらに「あまり特定の解釈に影響されずに、自分なりに読む事が大切だ」と思っている事も大きい。仏教は基本的に「私」である。お経が皆「如是我聞」と「私はこのように聞きました」という言葉で始まるように、仏教すなわちあらゆる物事において本来先ず「自分はどうか」という事が肝心なのである。
 「私はこう聞いた」「私はこう考える」事を先ず表現する、それは当然一人一人異なってくる。そしてそのお互いが、お互いの違いを認め合った上で、その違いを議論していき一致点を見い出していく事が本来なのである。だから、この「顛倒」に連載した私の「歎異抄」は、僕の試みの読みだから、意見の違う人は是非、指摘してもらってお互いに考えていきたいのである。そんな姿勢がまた歎異抄の教えでもある。第二章で「面々の御はからいなり」と親鸞は仰る「それぞれが選び決める事ですよ」と。


【人間成就の道しるべ】

  「顛倒」では特に要点と思われる語句を大文字で抜き出してきたが、私達にとって「道しるべ」となる言葉を、意訳と共にここに再録してみよう。
言 葉
意 訳
・面々の御はからいなり 
・・・
それぞれが選び決める事ですよ
・親鸞は弟子一人も持たずそうろう
・・・
私の弟子でなく、皆同じ方向に歩く仲間だ
・付くべき縁あれば伴ない、離るべき縁あれば離る
・・・
出会いも別れも偶然の必然だ
・念仏者は無碍の一道なり
・・・
念仏する人は障りを 障りとしない道を歩む者である
・念仏申しそうらえども踊躍歓喜の心おろそかにそうろう
・・・
念仏しても喜べない
・死なんずるやらんと心細く思ゆる事も煩悩の所為なり
・・・
心細く、思い悩むのも煩悩
・本願を信じ念仏申さば仏に成る
・・・
阿弥陀仏の願いを我が願いとする歩みが成仏道
・薬あればとて毒を好むべからず  
・・・
何をしてもよいが、何でもするわけではない
・賢善精進の相を外に示して内には虚仮を抱けるものか
・・・
ええ格好していないか
・日頃の心にては往生かなうべからず
・・・
世間の常識で生きていては真実は分からない
・我がはからわざるを自然と申すなり
・・・
あるがままに生きる道がある
・いかに宝物を仏前にも投げ師匠に施すとも
                                  信心欠けなばその詮なし              
・・・
形でなく中身
・如来より賜りたる信心   
・・・
真実そのものを信知する
・弥陀の五刧思惟の願をよくよく案ずれば
                            ひとえに親鸞一人が為なり
・・・
私が弥陀を救う
・常に沈み常に流転して 出離の縁ある事なき身   
・・・
流れていくのが人間
・善悪のふたつ総じてもって 存知せざるなり   
・・・
世間の常識はころころ変わる
     
 さあどうだろうか。

私達の常識の日常を射抜く厳しい指摘ではないか、と同時に何か安心を覚える言葉でもある。


 

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 この連載を終えて、全く教典の言葉を使わない、日常の日本語で表現した
「歎異抄」を書いてみたいという気持ちが大きくなってきている。
願い続ける事で、いつの日か実現できるだろう。

 

―――以上『顛倒』03年10月号 No.238より―――

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