歎異抄(47)
■後序■ ・・・その8
〜一室の行者の中に信心異なる事無からん為に〜
【後序】その8
これさらにわたくしのことばにあらずといえども、経釈のゆくじもしらず、法文の浅深をこころえわけたることもそうらわねば、さだめておかしきことにてこそそうらわめども、古親鸞のおおせごとそうらいしおもむき、百分が一、かたはしばかりをも、おもいいでまいらせて、かきつけそうろうなり。かなしきかなや、さいわいに念仏しながら、直に報土にうまれずして、辺地にやどをとらんこと。一室の行者のなかに、信心ことなることなからんために、なくなくふでをそめてこれをしるす。なづけて『歎異抄』というべし。外見あるべからず。


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【住職による現代語訳】
 これまで述べてきたことは、単に自分勝手な言葉ではないとはいっても、経典やその解釈書の筋道も知らず、仏法の言葉の深い意味も心得分けている私でもありませんから、きっとお笑いの事かも知れません。が、今は亡き親鸞聖人の仰った趣旨の百の内ひとつでも、わずかばかりを思い出しながら書き付けました。
 せっかく念仏の世界に触れる幸せを得ながら、直ちに真実の浄土に生まれる事なく、自分の思いに執着して辺地に留まっている事は、誠に悲しいことです。
 同じ念仏の教えに生きる仲間の中に、信心の異なる事が無いことを願って、悲しい事ですけれど、筆を染めてこの書物を書きました。名付けて『歎異抄』と言うべきです。ただし公開するようなものではなく自分自身の大切な書物にしてください。


<住職のコメント>
 遂に『歎異抄』の最後の章になった。1999年の3月号から読み始めて、コツコツ書いてきたが、「もう4年半になるんやなぁ」という感じだ。思い起こせば、その間にも、いろんな事があった。個人的に大きな事は、本山の議員のになった事か。それもそろそろ丸二年となる。「早いものだなぁ」。そうそう東京坊主バーも三年目を迎えている。出会いもあった、別れもあった、裏切られたなぁという思いをすることもあった。ただ五体を地に投げて嘆く時もあろう。そしてまた「それは自分のコントロールできない事だから」とよくイチローが語るように、如意なるものと不如意なるものを、しっかりと見極めて自分を律していけることもあろう。「異なるを嘆く」という視点を自分に向けて、大切に保っていきたいものだと願っている。

―――以上『顛倒』03年7月号 No.235より―――

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