歎異抄45
後序 ・・・その6
善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり
【後序】その6
・・・まことに如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり。聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ。如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもっ*641て、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とこそおおせはそうらいしか。


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【住職による現代語訳】
 真実からの働きを受けているという御恩を、本当に問題としないで、自分も他人も、善し悪しという事ばかりを問題にして言い合っています。親鸞聖人が仰っていた事ですが、「善悪の二つは、総じて私は存じておりません。なぜなら、阿弥陀如来の御心に「善し」思われるほどに徹底して、善しという事が分かるならば、善いという事を知っているとも言えるでしょうし、また、阿弥陀如来が「悪し」と思われるほどに、私が知り通しているなら、悪いという事を知っているということなのでしょうが、私自身は、身を煩わし心を悩ます、煩悩がたっぷりと具わった凡夫でありますし、この私の住む世界は、燃えあがる家のように、常で無く、移り変わる世界ですから、そんな世界のあらゆる出来事は皆、虚事戯事で真実などありませんから。その中で、唯一つ念仏だけが真実なのです」と仰っていました。


<住職のコメント>
 さあまた『歎異抄』のナゾの言葉。その極めつけが出てきた。「何が善いやら、悪いやら、全く知りません」では、世の常識や道徳はどないなる。学校も要らんし、「廃悪修善」を説く「仏教」まで否定してしまうように思えてしまう。「親鸞さん、いったい、何を言いだすんや」と。この辺りが、かの蓮如さんが歎異抄を禁書にした理由のようだ。でもよく読んでみよう。親鸞さんは善悪を否定しているか?そうではない。「廃悪修善」の「善悪」が人間の考えになっていることを批判しているのである。そんな時と場合によって、都合や立場で変わるようなものでなく、如来の、すなわち、「真実の善悪」に立てと言われているのである。「いつ、どこの、誰にでも“そうだ”と言えるようなものに立て」と。

―――以上『顛倒』03年5月号 No.233より―――

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