歎異抄42
後序 ・・・その3
聖教には真実権仮ともに相交わり候
【後序】その2
 ・・・いずれもいずれもくりごとにてそうらえども、かきつけそうろうなり。露命わずかに枯草の身にかかりてそうろうほどにこそ、あいともなわしめたまうひとびとの御不審をもうけたまわり、聖人のおおせのそうらいしおもむきをも、もうしきかせまいらせそうらえど0も、閉眼ののちは、さこそしどけなきことどもにてそうらわんずらめと、なげき存じそうらいて、かくのごとくの義ども、おおせられあいそうろうひとびとにも、いいまよわされなんどせらるることのそうらわんときは、故聖人の御こころにあいかないて御もちいそうろう御聖教どもを、よくよく御らんそうろうべし。おおよそ聖教には、真実権仮ともにあいまじわりそうろうなり。権をすて実をとり、仮をさしおきて真をもちいるこそ、聖人の御本意にてそうらえ。かまえてかまえて聖教をみみだらせたまうまじくそうろう。


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【住職による現代語訳】
 どれもこれも、私の繰り言ですが、書き付けました。
 私も年をとって露のような命がわずかに枯草のような身に残っている間に、相共に教えを聞いて、生活してきた人々の御不審な点を承り、親鸞聖人の仰った趣旨を申し聞かせて来ましたが、私が眼を閉じた後は、さぞかし教えが乱れてしまうのだろうと嘆いています。このような(十一章から十八章の)、間違った受け止め方をしておられる人たちの言う言葉に迷わさせられることのある時は、亡き親鸞聖人の思し召しにかなって、聖人のよく用いられた御聖教などを、よくよく御覧ください。
 ただし、だいたい聖教には、真実なるものと、真実を知らせる仮のてだてが交じっています。仮に表されている姿を捨てて実を受け取り、仮の表現を差し置いて真の働きに気付くことこそが、親鸞聖人の御本意です。用心して、注意して、聖教を見誤ることのないようにして下さい。


<住職のコメント>
 唯円さんが歎異抄をかかれた動機が印されている。何時の世でも解釈の問題はある。だからこそ、仏教でもたくさんの宗派に分かれてしまうのだ。ここでスゴイのは、教えにも真実権仮があると言い切っている事だろう。それは「真実」とは与えられるのではなく、自分自身で選び取っていくものだと言うのである。仏の聖教でさえそうなのだから、まして、日常の新聞や本やテレビなど尚のことだ。「テレビでも言うこと」を再度選び取る確かな眼を私達一人一人の中に育てていかなければならない。

―――以上『顛倒』03年2月号 No.230より―――

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