歎異抄39
第十八章 ・・・その2
いかにたからものを仏前にもなげ、
師匠にもほどこすとも、信心かけなば、その詮なし。
【第十八章】その2
いかにたからものを仏前にもなげ、師匠にもほどこすとも、信心かけなば、その詮なし。一紙半銭も、仏法のかたにいれずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にてそうらわめ。すべて仏法にことよせて世間の欲心もあるゆえに、同朋をいいおどさるるにや。


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【住職による現代語訳】
  どれほど大切な物を仏前に投げ出そうとも、先生に施そうとも、信心が欠けていれば、その甲斐はありません。紙の一枚、銭の半分も、仏法興隆の為に寄付しなくとも、阿弥陀仏の他力にお任せして、深い信心を頂けば、それこそ、阿弥陀仏の根本の願いの本意であります。
 寄付の大小を問題にするのは、全て仏法に事寄せて、世間的な欲の心で、人々を言い驚かしているのです。


<住職のコメント>
 「異なるを嘆く」と名付けられた『歎異抄』のその最後の章。後は、後序を残すだけの第18章で取り上げれた課題が、この、仏法と金銭の問題であるという事は、誠に示唆に富んでいる。昔も今も変わらず私たちのつまづきはその辺りにあるのだと。
 一方、金銭のことを問題にして「多くとも少なくとも変わらない」と聞くとすぐに、「それじゃあ、少なくしとこう」と思ってしまう私もいる。それもまた金銭の大小、見返りにとらわれた姿であろう。思えば、親鸞聖人は、基本的に門徒からの寄進によって生活されていた。門徒も「身命を省みず」はるばる関東から京都まで寄進を届け、聖人から教えを受けて帰っていかれた。時代が下って蓮如上人も「われは門徒に持たれり」とご門徒衆を敬っておられる。このような金銭の伴う健康な人間関係とは、どういうものなんだろうと思う。まま、私達は金銭によって関係を壊しがちだ。が、そこに「何が大切なのか」と「真実に生きよう」とする道理に沿った視点(信心)があるのかどうかが問われている。

―――以上『顛倒』02年10月号 No.226より―――

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