歎異抄(36)

■第十六章■その3 ・・・
〜わがはからわざるを自然ともうすなり〜

【第十六章】その3
 すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねにおもいいだしまいらすべし。しかれば念仏もうされそうろう。これ自然なり。わがはからわざるを、自然ともうすなり。これすなわち他力にてまします。しかるを、自然ということの別にあるように、われものしりがおにいうひとそうろうよし、うけたまわる。あさましくそうろうなり。


【住職による現代語訳】
 全ての万の場合に於いて、本当に生きて往くには、人間の小賢しい思いで考えるのではなく、唯、阿弥陀仏如来の、いかなる者も光の中に摂め取って捨てない「本願力」のご恩の深く重いことを、常に惚れ惚れと思い出すべきです。そうすれば当然、念仏申すことが出来ます。全く自然なことです。
 このように、自分が計らわないことを「自然」(じねん)と言うのです。これが即ち「他力」です。
 そうであるように「自然」ということが、特別なものであるかのように、物知り顔に言う人が在ることを聞きますが、誠に浅ましいことです。
 


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<住職のコメント>
「自然」(じねん)という言葉は、親鸞さんの昨晩年に出てくる考え方です。「あるがまま」ということなんですが、お若い頃にあれほどラジカルだった親鸞さんも、お年を召されてだいぶおだやかになられたんだなぁという気もします。でも、同じような晩年に「身を粉にしても、骨をくだきても」と激しいことも言われているので、「自然」といっても、単に穏かというわけでもなさそうです。「自然とは他力だ」ということでしょうか。ここで作家の五木寛之さんが「他力」のたとえ話で、ヨットの話で「風をうまくつかまえればヨットは自然に走ってくれます。これが他力です。でも『果報は寝て待て』とサボっていては、他力の風を掴むことは出来ません。天候を読み、潮目を観て、うまくセイルを張って、風をつかむ。正しいキチンとした作業・努力があってはじめて、他力の風がつかめるのです」と話されたことを思い出します。さすが作家のたとえだなぁとよくわかります。キチンと物事の有り様を観てちゃんと行動するとき、自ずから然らしむる結果があると・・。
 
 


―――以上『顛倒』02年7月号 No.223より―――


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