歎異抄(35)

■第十六章■その2 ・・・
〜いよいよ願力をあおぎまいらせば、
柔和忍辱のこころもいでくべし〜

【第十六章】その2
一切の事に、あしたゆうべに回心して、往生をとげそうろうべくは、ひとのいのちは、いずるいき、いるいきをまたずしておわることなれば、回心もせず、柔和忍辱のおもいにも住せざらんさきにいのちつきなば、摂取不捨の誓願は、むなしくならせおわしますべきにや。くちには願力をたのみたてまつるといいて、こころには、さこそ悪人をたすけんという願、不思議にましますというとも、さすがよからんものをこそ、たすけたまわんずれおもうほどに、願力をうたがい、他力をたのみまいらするこころかけて、辺地のしょうをうけんこと、もっともなげきおもいたまうべきことなり。信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はかられまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし。


【住職による現代語訳】
 一切のことについて(今ではなく)明日とか、夕べに回心(えしん・信心が定まること)して、生きて往くことを始めようとしても、人の命は、出る息、吸う息を待たずに、一瞬に終ってしまうこともあるので、それでは、回心もせず、柔らかで逆らわない心に安住しない前に、命が尽きてしまうので、あらゆる者を摂い取って捨てない阿弥陀仏の誓願は、いたずらごとになってしまいます。
 口では「阿弥陀仏の本願の力を、お馮み申し上げる」と言っていても、心では「悪人でも助けようという願いは、いかに不思議になことだとはいっても、やはり、善き者をお助けになるのだろう」と思う人は、阿弥陀仏の本願の力を疑い、阿弥陀仏の力をお馮み申し上げる気持ちが欠けているので、真実の世界の周辺にある、仮の世界のに生まれてしまいます。が、それは、最も嘆くべきことです。
 信心が定まったならば、本当に生きて往くことが始まるのは、阿弥陀仏すなわち真実そのものの働きによるのであって、人間の計らい、努力によるものではないのです。
  悪い者であっても、よりいっそう阿弥陀仏の本願の力を仰ぎ奉れば、自然の道理によって柔らかで逆らわない心もでてくるのです。


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<住職のコメント>
 浄土真宗は「即得往生」。
未来、将来、いつかわからないような不安な
教えではない、 今、ハッキリする。
言い換えれば
「今、ハッキリさせないでいつするのか」と
常に問題を先送りして、
自分をゴマかす私達への厳しい問いかけでもある。
 厳しいけれどそれが大きな安心なのではないか。


―――以上『顛倒』02年6月号 No.222より―――


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