歎異抄(34)

■第十六章■その1 ・・・
〜回心ということ、ただひとたびあるべし〜

【第十六章】その1
信心の行者、自然に、はらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋同侶にもあいて口論をもしては、かならず回心すべしということ。この条、断悪修善のここちか。一向専修のひとにおいては、回心ということ、ただひとたびあるべし。その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまわりて日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、回心とはもうしそうらえ。


【住職による現代語訳】
 信心の行者が、状況によって、腹を立てたり、悪い行いを犯したり、念仏の仲間に会って口論することがあるが、そんな煩悩の起こる、その度に回心(えしん)して、悔い改め、悪い心を翻して善に向かうべきだという「教え」がありますが、それは、悪を断ち善を修する自力のこころです。
 ひとすじに本願をあおいで念仏する一向専修の人においては、「回心」とは、自己関心に囚われた自分の立場が根本から転換されて真実に向かうことであって、人生におけるただ一度の出来事なのです。
 その「回心」とは、これまでに本願他力の真宗を知らなかった人が、阿弥陀如来の智慧を賜って「人間の日常性を立場とする心では、本当に生きて往くことはできないのだ」と気付いて、元の心を引きかえて、阿弥陀如来の本願を自らの立場とする生きざまが始まることを「回心」と言うのです。


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<住職のコメント>
「より強く、より速く、より高く」だったか1964年の東京オリンピックの標語が確かこうだったと思う。その後「大きいことはいいことだ」という言葉も流行した。
  そんな時代の中で、よい学校へ、よい会社へ、よい仕事へと、その何が「よい」のかを確かめもせず、私たちは走り続けてきたのではなかったか。
  そして今もなお「よりよく」という世間の『モノサシ』を自分自身の中に取り込んでしまって、「あれよりはよい」「これよりは悪い」と『よしあし』を比べる心にかかりはて、実はほとほと苦しんでいるのではないか。
  今こそがチャンスの刻(とき)ではないか。そんな世間のモノサシではなく自分自身の独自の、そしてそれが、いつの誰のものでもあるモノサシを獲得するチャンスの刻(とき)ではないか。


―――以上『顛倒』02年5月号 No.221より―――


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