歎異抄(30)

■第十四章■その3 ・・・
〜すみやかに往生をとぐべし。〜

【第十四章】その3
そのあいだのつみは、いかがして滅すべきや。つみきえざれば、往生はかなうべからざるか。摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、罪業をおかし、念仏もうさずしておわるとも、すみやかに往生をとぐべし。また、念仏のもうされんも、ただいまさとりをひらかんずる期のちかづくにしたがいても、いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそそうらわめ。罪を滅せんとおもわんは、自力のこころにして、臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにてそうろうなり。


【住職による現代語訳】
 私たちが生きている間に犯す罪は、どの様にして滅することができるのでしょうか。 罪が消えなかったら、往生は叶わないのでしょうか。
 あらゆる生きとし生けるものを摂い取って捨てない阿弥陀仏の根本の願いを、お馮み申し上げれば、どのように不思議な働きがあるのか、悪業を犯し、念仏も申さずに、この世の命を終わっても、即やかに往生を遂げることができるのです。また、念仏申されようが、今、悟りがひらかれる時が近づいていようが、いよいよより一層、阿弥陀仏を馮み、その御恩に報じ申し上げるものなのです。
 罪を滅して往生を遂げようと思うのは、自らの力を頼っている心であり、命終わるときに臨んで、心乱れず、正念のうちに仏の来迎を待とうと祈る人の心持ちであって、それは、阿弥陀仏の不思議な力に全てを投げ出し、おまかせする、「他力」の信心の無いすがたなのです。
 

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<住職のコメント>
「歎異抄」を著された唯円さんは、この14章で徹底して『自力』を問題にされる。私たちにとって一番受け止め難い課題だからだ。
 人間は『救われたいから』、何か「宗教」を、「教え」を、求めるのではないのか。しかし、唯円さんひいては親鸞さんは、「それこそが大きな間違いだ」と言われる。「それなら宗教なんて要らないじゃないか」と私たちは言いたくなる。「そんな“宗教”は本当の宗教ではない」と、親鸞さんはまた言われる。私たちは、訳がわからなくなってしまう。でもそこで立ち止まって考えてみよう。「救われたいから」「何かしんどいことがあるから」=「宗教が必要だ」と言うのであれば、「救われたくない人」「悩みの無い人」には「宗教は不必要だ」ということになってしまう。“宗教”とはそんなご都合だけの、何かの手段でしかないものなのか。そうではない。不完全な人間存在に不可欠な在るものを『宗教』と呼ぶのである。


―――以上『顛倒』01年12月号 No.216より―――


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