歎異抄(29)

■第十四章■その2 ・・・
〜みなことごとく、如来大悲の恩を報じ
徳を謝すとおもうべきなり。〜

【第十四章】その2
この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもいて、一生のあいだもうすところの念仏は、みなことごとく、如来大悲の恩を報じ徳を謝すとおもうべきなり。念仏もうさんごとに、つみをほろぼさんと信ぜば、すでに、われとつみをけして、往生せんとはげむにてこそそうろうなれ。もししからば、一生のあいだ、おもいとおもうこと、みな生死のきずなにあらざることなければ、いのちつきんまで念仏退転せずして往生すべし。ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあい、また病悩苦痛せめて、正念に住せずしておわらん。念仏もうすことかたし。


【住職による現代語訳】
阿弥陀仏の大悲の本願がなかったならば、自分のようにあさましい罪人は、どのようにしても、生き死にする迷いの生活から解き放たれて、自在な身となることなどできはしない。と思い決めて、一生の間「念仏」申すその念仏はみな全て阿弥陀仏如来の大悲の恩に応え徳を謝することだと知るべきです。
(そうではなく)念仏申す毎に罪を滅ぼして下さると信じて「念仏」申すのは、自分の力で罪を消して往生しようと励んでいることなのです。もしそうならば、一生の間、思い思うことは、みな生き死にの迷いの世界にこの身を縛る絆であるのですから、命の終わる最後まで、怠ることなく念仏し続けて、はじめて往生することができるのでしょう。 が、ただし私たちの力や条件は限界のあることですから、どのような思いがけない出来事に出会うかもしれませんし、また病気に悩み、苦痛が迫って、臨終に心を落ち着けて、一心に阿弥陀如来を頼むことができずに、命を終わっていかなければならないかもしれません。だから、このような「念仏」を申すことは不可能なほど難しいことなのです。
 

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<住職のコメント>
以前ある方から「会社がイヤで身体が動かず出社拒否になっている」
と相談されたことがあった。
僕は「目が覚めた時に、ナンマンダブツと百遍唱えれば
行けるようになりますよ」とお応えした。
後日、その方から「出社できるようになった」とお返事を頂いた。
何も念仏の特別の力ではない。
自分自身の素直な力が出てきただけのことであろう。
それほど人間というものはやっかいなもので、
意地やら面子やら素直になれないものなんだなぁと解る。


―――以上『顛倒』01年11月号 No.215より―――


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