歎異抄(27)

■第十三章■その5 ・・・

〜願をほこりてつくらんつみも、
  宿業のもよおすゆえなり〜

【第十三章】その5

願をほこりてつくらんつみも、宿業のもよおすゆえなり。
さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ。
『唯信抄』にも、「弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくわれがたしとおもうべき」とそうろうぞかし。
本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにてそうらえ。
おおよそ、悪業煩悩を断じつくしてのち、本願を信ぜんのみぞ、願をほこるおもいもなくてよかるべきに、煩悩を断じなばすなわち仏になり、仏のためには、五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。
おおよそ、悪業煩悩を断じつくしてのち、 本願を信ぜんのみぞ、願をほこるおもいもなくてよかるべきに、 煩悩を断じなばすなわち仏になり、仏のためには、五劫思惟の願、 その詮なくやましまさん。
本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩不浄、具足せられてこそそうろうげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を、本願ぼこりという、いかなる悪か、ほこらぬにてそうろうべきぞや。 かえりて、こころおさなきことか。
 

【住職による現代語訳】

「本願ぼこり(どんな者でも救ってくださるという阿弥陀の本願に甘えること)」でつくる罪も、宿業(しゅくごう・過去の行為をの積み重ねの結果)によるのです。であれば、善いことも悪いことも、あるがままに任せて、ひとえに本願を馮(たの)むことこそ「他力」なのです。
 「唯信抄」にも「阿弥陀如来の力がどれほど力強いか知った上で、あなたは自分のような罪深い者は救われ難い」と思っているのでしょうか。本願を誇る心があるからこそ、他力を馮む信心も決定するのです。
 悪業煩悩を断ち尽くしのちに、本願を信ずるのなら、本願を誇る思いもなくてよいのでしょうが、煩悩を断つということは、仏(悟った人)に成ることであり、仏のためには、阿弥陀仏の五劫思惟の願いは無用のものになります。
  「本願ぼこり」と戒められる人々も、煩悩や穢れを身に持っておられるようですが、そんな人は本願に誇ってもらえないのでしょうか。
  どのような悪を「本願ぼこり」と言い、
どのような悪なら、本願に関係が無いなどと言えるのでしょうか。とても浅い考えです。



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<住職のコメント>

少し難しい文章が続きます。
歎異抄の著者の唯円の説教臭いところでしょうか。
「本願ぼこり」が問題となっていますが、
「本願」なんて言葉が 世間でほぼ死語になっている現代にあっては、
問題となること事体が私たち坊さんにはうらやましいことです。


―――以上『顛倒』01年8月号 No.212より―――


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