■第十三章■その1 ・・・
〜卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、
宿業にあらずということなしとしるべし〜
○【第十三章】その1
- 弥陀の本願不思議におわしませばとて、悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、往生かなうべからずということ。
この条、本願をうたがう、善悪の宿業をこころえざるなり。よきこころのおこるも、宿善のもよおすゆえなり。
悪事のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえなり。
故聖人のおおせには、「卯毛羊毛(うもうようもう)のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき。
トルフィンにて
【住職による現代語訳】
阿弥陀如来の本願は不思議な働きだから、どんな悪事を犯してもかまわないと、悪をおそれない在り方は、「本願ぼこり」といって、本願にあまえ、つけあがることだから、それでは、本当に生きて往くことなど出来はしない。ということ。この条文は、本願を疑うことであり、善し悪しの宿業(かってないした行いによって、現在の有り様が左右されること)の理をこころえていないことです
私たちの善いこころが起こるのも、宿善(かつってなした善き行いのたね)によって、もたらされたことです。また、悪しき事の思われるのも、悪業(悪しき行い)の計らいによるのです。
今は亡き親鸞聖人のおおせには、
「うさぎの毛、ひつじの毛の先にとまった、ちりほどの僅かな罪でも、宿業(かってなした行いによって、現在が左右の有り様が左右されること)でないものは無いと知るべきです」とあります。
**************************
○<住職のコメント>
やっかいな「宿業」という言葉。
これほど誤って使われてきた仏教用語はない。
『前世の因縁の報い』といった使われ方をして、多くの人々を差別してきた。
最近でも『オウム』なんかで似た使い方をされている。
本来は『全ての歴史を背負っている私』という私自身の存在の確認の言葉で、
これが自覚されて初めて私たちは、
「今、ここ」にスクッっと立ちあがっている歩んでいけるのである。
そうでなければ所詮、根無し草、「空しく過ぐる」である。
―――以上『顛倒』01年4月号 No.208より―――
瑞興寺のホームページ | 次 の ペ−ジ | |
『歎異抄』の目次 |