歎異抄(22)

■第十二章■その4 ・・・
〜いまの世には学文して、ひとのそしりをやめ、
ひとえに論義問答むねとせんとかまえられそうろうにや〜

【第十二章】その4
いまの世には学文して、ひとのそしりをやめ、
ひとえに論義問答むねとせんとかまえられそうろうにや。
学問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、
いやしからん身にて往生はいかが、なんどとあやぶまんひとにも、
本願には善悪浄穢なきおもむきをも、とききかせられそうらわばこそ、
学生のかいにてもそうらわめ。
たまたま、なにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも、
学文してこそなんどといいおどさるること、法の魔障なり。仏の怨敵なり。
自ら他力の信心かくるのみならず、あやまって、他をまよわさんとす。
つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。
かねてあわれむべし、弥陀の本願にあらざることをと云々


【住職による現代語訳】

 いまの世間の人は、学問をして、他人を謗ることをやめ、専ら論議問答を中心にしようと心掛けておられるでしょうか。
  学問をすれば、いよいよ阿弥陀仏如来のご本意を知り、あらゆるものを摂い取って捨てない阿弥陀仏如来の大悲の願いの広く大きいことを、よく知られるのですから、「ご自分のような卑しいものに、本当に生きて往く道などあるのだろうか」と心配する人々にも、「阿弥陀仏如来の本願は善悪浄穢を選ばない趣旨であること」を、説き聞かせられたらばこそ、学者の値打ちでありましょう。
 たまたま、何の疑いもなく、本願に相応しく念仏する人に「学問をしなければ」などと言いおどろかすことは、仏法を妨げる悪魔の障りであり、仏に仇なす敵でしょう。その人自身が、他力の信心に欠けるだけでなく、誤って他人を迷わそうとすることです。謹んで親鸞聖人の御心に背くことを恐れるべきです。阿弥陀仏の本願にあらざることを、かねて哀れむべきです。


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<住職のコメント>
先日、ある有名な大学教授の話を聞く機会があった。
本を40冊も出し、経済学博士で工学博士でもある。
まことに明快に理路整然と日本経済の現状を、お説き頂いた。でも心の底にモヤモヤが残っている。
お話の後の質問で思わず「でもそれって強者の論理でしょう?」と言ってしまった。
くだんの先生、あわてずさわがず「変に平等に扱おうとするから強弱ができる。
理論通りにやれば強弱は無い」とおっしゃった。
人間が筋書き通りにできるのなら、苦労はないのだが、この先生どうも、そんなダラシナイ人間は、眼中に無いようであった。
『人のフリミテワガフリナオセ、心セネバナラナイ』
西安のお寺にて撮影


―――以上『顛倒』01年3月号 No.207より―――


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