歎異抄(20)

■第十二章■その2 ・・・
〜上根のひとのためにはいやしくとも、
       われらがためには、最上の法にてまします。〜

【第十二章】その2
当時、専修念仏のひとと、聖道門のひと、諍論をくわだてて、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなりというほどに、法敵もいできたり。謗法もおこる。これしかしながら、みずから、わが法を破謗するにあらずや。たとい諸門こぞりて、念仏はかいなきひとのためなり、その宗、あさしいやしというとも、さらにあらそわずして、われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの。信ずればたすかるよし、うけたまわりて信じそうらえば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには、最上の法にてまします。たとい自余の教法はすぐれたりとも、みずからがためには器量およばざれば、つとめがたし。われもひとも、生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意にておわしませば、御さまたげあるべからずとて、にくい気せずは、たれのひとかありて、あたをなすべきや。


【住職による現代語訳】

 当時、専ら本願を信じ念仏を修行する人々が論争を企てて「我が教えこそ優れている、他の教えは劣っている」と言い争ううちに、ますます、仏法は敵も出て来るし、仏法を謗(そし)ることも起こってきました。しかしこれは、自ら自分の道理を破り謗ることではないでしょうか。
 たとえ、他の宗派の人々がこぞって「念仏は甲斐性の無い人のための教えであって、その教えは浅く卑しいものだ」と言ったとしても、あえて争うことは有りません。私たちのように「能力に劣る凡夫の者、文字の通じない者であっても、念仏を信ずればたすかるのだ」と、承って信じ申し上げるのですから、能力の有る人には卑しくとも、私たちのためには、最上の道理であります。
 たとえ、念仏以外の教えや道理が優れているとしても、自分にとっても他人にとってもわれもひとも、自分の器量が及ばなければ、やり通すことはできません。われもひとも、迷いの生き死にの世界を離れさせることこそ諸仏の本意なのですから、「妨げをするな」とにくらしい態度を取らなければ、誰が害をなしましょうか。


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あの日一体何が起こったのか・・
<住職のコメント>
同じ「歎異抄」にある親鸞聖人の有名な
『地獄は一定、住みかぞかし』
の言葉の応用編である。
日蓮上人は、「念仏は地獄落ちだ」と
声を極めて念仏者を批判する。
それに対し反論もせず親鸞は
「ああそうですよ元より地獄行きですよ。
それがどうかしましたか」 と動じない。
地獄・極楽に善し悪しをたてる自我を観られている。


―――以上『顛倒』00年12月号 No.204より―――


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