歎異抄(19)

■第十二章■その1 ・・・
〜本願を信じ念仏をもうさば仏になる〜

【第十二章】その1
経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義といいつべし。他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ、念仏をもうさば仏になる。そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことわりにまよえらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといえども、聖教の本意をこころえざる条、もっとも不便のことなり。一文不通にして、経釈のゆくじもしらざらんひとの、となえやすからんための名号におわしますゆえに、易行という。学問をむねとするは、聖道門なり、難行となづくあやまって、学問して、名聞利養のおもいに住するひと、順次の往生、いかがあらんずらんという証文もそうろうぞかし。


【住職による現代語訳】

 「仏教の経典や経典の解釈をした書物を読まない、学ばない人たちには、どのように浄土に生まれることができるかどうか定かではない」という見解がありますが、これは全く論ずる価値も無いほどの議論です。
 「本願他力の力のまことである」ことの根拠を明らかにされる諸々の聖教は、「本願を信じ念仏をもうさば仏に成る」ことを説いているのであって、その外の何の学問も往生の要ではありません。
 まさに、この道理に迷っている人は、その人こそ、学問をして、本願の意味内容を知るべきなのです。経釈を読み、学問しているのに、聖教の本意を心得ないことは、まことに哀れなことです。
 文字も読めず、経釈のすじみちも知らない人の、称えやすいがための「南無阿弥陀仏」の名号だからこそ「易行(行じ易い仏道)」というのです。
 学問を中心とするのは、聖道門(修行して自らの力を高め、向上して悟りに至ろうとする仏道)であって、それは易行ではなく「難行(行じ難い仏道)」と名付けられます。
 「誤って学問して、名誉欲と財欲の思いで生きている人は、次の世に浄土に生まれることは、疑わしい」という、親鸞聖人の証文もあります。 


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<住職のコメント>
また唯円さんの学問批判です。
これは今も言えています。
「難しい言葉ばかり並べる」坊さん批判です。
「それでどうするのか」という行動が
必要なんです。


―――以上『顛倒』00年11月号 No.203より―――


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