歎異抄(18)

■第十一章■その2 ・・・
〜誓願不思議・名号不思議〜

【第十一章】その2
これは誓願の不思議を、むねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらにことなることなきなり。つぎにみずからのはからいをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さわり、二様におもうは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、もうすところの念仏をも自行になすなり。このひとは、名号の不思議をも、また信ぜざるなり。信ぜざれども、返事懈慢疑城胎宮にも往生して、果遂の願のゆえに、ついに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなわち、誓願不思議のゆえなれば、ただひとつなるべし。

【住職による現代語訳】

  阿弥陀仏の誓願不思議と、名号(名前の)不思議とは、どういうことなのかというと、誓願の不思議が本来中心であると信じ知れば、名号の不思議も自然に伴うので、誓願不思議も名号不思議もひとつのことで、異なることはありません。
 次に、自らの計らいを差し挟んで、善悪の二つについて、善は往生のたすけとなり、悪はさわりになると思うことは、誓願の不思議を憑(たの)まずに、自分勝手なこころで、自らがたすかるための修行に励むことになり、申している念仏を自分の行にしてしまっています。こういう人は、名号の不思議も信頼していないのです。
 しかし、このように誓願の不思議を信じていない人であっても、念仏申せば、辺地(真実の世界の片すみ)懈慢(信心の賢固でない人の行く所)疑城胎宮(仏を疑う人の行く所で、宮殿のように居心地のよい所)には行くことができ、さらにそこから、阿弥陀仏の果遂の誓い(念仏しながら自力の心を離れえないものでも、必ず真実の世界に転入せしめるという誓い)によって、遂には真実世界に往生できるのは、南無阿弥陀仏と口に称える、名号の不思議なのです。さらに、それこそ、誓願の不思議でもあるのですから、誓願不思議、名号不思議はただひとつのことなのです。誓願と名号が二つ別々にあるのではなく、誓願の名号として一つなのです。名号の無い誓願では「働き」の無い理論、観念になり、誓願の無い名号ならば「呪文」に成ってしまいます。



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<住職のコメント>
『学問と信心は別!』と言いきる唯円さんも
ここは結構ウンチクを述べています。大事なところです。
現代語訳の後の3行の部分が特に大切です。
観念でもなく呪文でもない。
阿弥陀仏の誓願を我が願いとして生きる。具体性、主体性。
「ナムアミダ仏」が形となることが始まっていく。


―――以上『顛倒』00年10月号 No.202より―――


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