歎異抄(17)

■第十一章■ ・・・
〜なんじは誓願不思議を信じて念仏もうすか
また名号不思議を信ずるか〜

【第十一章】その1
 一文不通のともがらの念仏もうすにおうて、「なんじは誓願不思議を信じて念仏もうすか、また名号不思議を信ずるか」と、いいおどろかして、ふたつの不思議の子細をも分明にいいひらかずして、ひとのこころをまどわすこと、この条、かえすがえすもこころをとどめて、おもいわくべきことなり。誓願の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束あることなれば、まず弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて、生死をいずべしと信じて、念仏のもうさるるも、如来の御はからいなりとおもえば、すこしもみずからのはからいまじわらざるがゆえに、本願に相応して、実報土に往生するなり。

【住職による現代語訳】

 一字も知らない無学な人たちが 「なんまんだぶつ」申されるのに出会っては、 「あなたの念仏にはどんな意味があるのか。 あなたは阿弥陀仏の誓願の不思議な力を信じて念仏しているのか。 阿弥陀仏の名前の不思議な力を信じて念仏しているのか。 どちらなのか」などと言い驚かして、それでいて、 二つの不思議の意味を細かく説き明かさず、人の心を惑わすことは、 かえすがえすも心得わけて、してはいけないことです。
 阿弥陀仏の誓願の不思議なはたらきによって、 称えやすい「南無阿弥陀仏」という名号をつくってくださって、 この名を称える者を、浄土に迎えとろうと約束して下さったのですから、 先ず「阿弥陀仏の大悲大願の不思議なはたらきに、 おたすけいただいて、生き死にしている、 この世間を出るのだと信じて、念仏申すことができるのも、 真実のはたらきによるものである」と思えば、 少しも自らの計らいは混じらないので、阿弥陀仏の本願のこころにかなって、 真実報土(本当の浄土)に往かせて頂けるのです。


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<住職のコメント>
いやあ、唯円さんの厳しい「坊さん」批判ですね。
いや坊さんに限りません。
世間の学をする人に対する警鐘です。
勉強することによって、かえって真実に暗くなるんですね。
「計算では安全なはずだ。」などと、現実には、事故っていても言ってしまう。
「アホか、見えへんのか」ということでしょう。
現実のこの身の感覚を大事にしたいものです。


―――以上『顛倒』00年9月号 No.201より―――


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