歎異抄(16)

■第十章■ ・・・

〜念仏には無義をもって義とす
不可称不可説不可思議のゆえに〜

【第十章】
 「念仏には無義をもって義とす。 不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。
そもそもかの御在生のむかし、おなじこころざしにして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまわりしかども、そのひとびとにともないて念仏もうさるる老若、そのかずしらずおわしますなかに、 上人のおおせにあらざる異義どもを、近来はおおくおおせられおうてそうろうよし、つたえうけたまわる。いわれなき条々の子細のこと。

 
【住職による現代語訳】
 「念仏は、人間の思慮分別を加えないことをもって本義とする。 計らいの無いことこそが念仏の根本の意義であり、それが真実にかなうのである。 なぜなら念仏は、称(はか)ることもできず、説くこともできず、 考えることもできないからである。」 と親鸞聖人は仰った。
 そもそも親鸞さまが、この世においでになった頃、 はるかに遠い都で、苦労して歩まれ、信をひとつにして、 当(まさ)に来るべきまことの国に生まれようと、 心から願った人々は、 親鸞さまと同じ時にその教えを受け取られたけれど、 いま、その方々に伴って念仏申される老人や若者やいろんな人々が数知れずおられる中で、 親鸞さまの教えでない、異なった考えを、 特に最近は多くの方々が言い合っておられるように、 伝え聞いています。
 そのような、根拠のないさまざまな事柄を、次の章から、細かに挙げていきましょう。


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<住職のコメント>
また親鸞さんのナゾの言葉で始まる章だが、
それは、おいおい明らかになるとして、
ここでは『歎異抄』を書き記した唯円さんの『怒り』を感じてみたい。
『異なるを歎て』とよく言われるのだが、
もっと激しい、悲しみ、怒りが表現されているのではないか。


―――以上『顛倒』00年8月号 No.200より―――


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