歎異抄(15)

■第九章■その3 ・・・

〜踊躍歓喜のこころもあり急ぎ浄土へも
参りたくそうらわんには煩悩の
無きやらんと怪しくそうらいなまし〜


【第九章】その3

久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。
なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、 かの土へはまいるべきなり。
いそぎまいりたきこころなきものを、 ことにあわれみたまうなり。
これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ。
踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」と云々


 
【住職による現代語訳】

 はかり知れないほどの遠い昔から、 いままで、さまよい流れてきた苦しみや悩みに満ちた、私たちの住むこの裟婆世界を、 まさに故郷のように捨てがたい思いで執着し、未だ生まれていない、 心を安んじ身をはぐくむお浄土は恋しいとは思えないことは、 まことによくよく煩悩の強く盛んなことだなぁと思われます。 そのように、なごりおしく思っても裟婆の縁が尽きて、いたしかた無く、 この世のいのちの終わるときに、彼の国に参らせていただくのです。
 (そのように)急いで(浄土に)参りたいこころのない者を (阿弥陀仏の本願は)特に憐れみたまうのです。 だからこそ、いよいよ(阿弥陀仏の)大悲大願は頼もしく、 (私たちの)往生は決定していると思って下さい。
 (念仏を申すことによって)躍り上がるほどの歓喜があり、 いそいでお浄土に参らせてもらいたいなどという人たちは、 煩悩が無いんだろうかと、かえって疑わしく思えます。


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<住職のコメント>
この歎異抄第九章からは、徹底した如来への信頼が伝わってくる。
ごちゃごちゃ自分の心や力なんて頼る必要など無いよ。
アミダさんはチャンと見てて下さるんだからと。


―――以上『顛倒』00年7月号 No.199より―――


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