歎異抄(12)

■第八章■ ・・・
〜念仏は行者のために非行非善なり〜


【第八章】
念仏は行者のために、非行非善なり。
わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。
わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。
ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々 



 【住職による現代語訳】
 念仏は、それを行ずる者の行為でもなければ、それを行ずる者にとっての善でもありません。
 なぜなら、本当の念仏とは自分自身のはからいで行ずるものではなく、自らのはからいを捨て、阿弥陀如来の本願に全ておまかせする中で、如来のはたらきによって自然と口から出させていただく南無阿弥陀仏だから、自分の行ではないのです。
 また、念仏は至上の善ですけれども、自分自身のはからいでする善行ではないのですから、自分のための善ではありません。
 ひとえに他力、阿弥陀如来の力であって、自力、その人自身の力ではありませんから、行者のためには非行非善なのです


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<住職のコメント>
 先日、お坊さんでない友人達と山登りをしていて、思わず「ナンマンダ仏」と口から出て、皆にビックリされたことがある。
「さすがお坊さん」と変な感心もされたが、十九年前、初めて「ナンマンダ仏」を耳にしたときの自分自身の驚きを思い出した。
『そらぁ世間から見たら変なもんやね。』 ところが今、結構いろんな場面で、もちろん勤行以外で「ナンマンダ仏」を口にしている。
単に口慣れてきた、ということももちろんある。
けど何かしんどいとき、うっとおしいとき、耐えているとき、不安なとき、 思わず口に出て来て「大丈夫や」と言われている気もする。
「真実の教え」の大切さを思う。


―――以上『顛倒』00年4月号 No.196より―――

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