歎異抄(5)

■第三章■ ・・・その1・・・
〜善人なおもて往生をとぐいわんや悪人をや〜

○【第三章】 その1
        善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。
         しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、
         いかにいわんや善人をや。
         この条、一旦そのいわれあるににたれども、
         本願他力の意趣にそむけり。
         そのゆえは、自力作善のひとは、
         ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。
         しかれども、自力のこころをひるがえして、
         他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。 

 

 【住職による現代語訳】

『善人でさえ仏の真実の世界に往き遂げることができるのだから、悪人が往生するのは当然です』しかし、世間の人たちが常に言うのは、『悪人でさえ往生させてもらえるのだから、まして善人の往生は当然です』と。
この事は一応、道理があるように思われますが、阿弥陀仏の根本の願いの働きに全てお任せする、『本願他力(ほんがんたりき)』の本意に背いています。
なぜなら、自分の力で善行を積み上げて仏に成ろうと努力して、なんとかできると信じている『自力作善(じりきさぜん)』の人は、ひたすらに他力(阿弥陀仏の働き)にお任せするという、『馮む(たのむ)』心が欠けているので、阿弥陀仏の願いに添うものではありません。
 しかし、自力の心を翻して、他力を馮みたてまつれば、真実の本願に報いて建てられた一如(いちにょ)真実の世界に往くことができるのです。


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  <住職のコメント>

さあ、親鸞で一番有名な悪人正機説である。
近年の研究では、親鸞の師の法然が説いた教えを親鸞が広めたらしいが、この善悪の問題は、浄土真宗の一番の要点である。

先日、あるシンポジウムに出席していて、オウム真理教の話になり、『オウムは悪だというけれど、私たちも悪ではないですか』と私が発言して、『ミソもクソも一緒にするな』と批判されたが、どうだろうか。
確かに世間の善悪では、『オウムは絶対の悪人、私達は善人』ということだろう。
が、例えば、オウムは確かに『不殺生、殺すな』という仏教の第一の戒律を破ってはいるが、私達がぬくぬくと生きているそのことが、その裏で『殺生』を積み重ね、それに気づかないフリをして生活をしていることはどうなのか。
じっくり考えてみたいことではなかろうか。


―――以上『顛倒』99年8月号 No.188より―――

 

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