歎異抄(4)

■第二章■ ・・・その3・・・
〜面々の御はからいなり〜

【第二章】その3

弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。 善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。
法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。
詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。
このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、 またすてんとも、面々の御はからいなりと云々

 【住職による現代語訳】

あらゆる「いのち」を摂い取って捨てない、阿弥陀仏の根本の願いが真実であるなら、その根本の願い(本願;ほんがん)を説かれたお釈迦様の教え(仏説;ぶっせつ)もいつわりの言葉ではありません。
仏説が真実ならば、善導(ぜんどう・浄土教を大成した中国唐代の高僧、613〜681)さまの解釈もいつわりではありません。
善導さまの解釈が真実ならば、法然(ほうねん・親鸞の師、日本浄土教の元祖、1153〜1212)さまの言われることも、そらごとではないでしょう。
法然さまの言葉が真実ならば、この親鸞が言うことも、また、根拠のないことではないはずです。 
つづまるところ、愚かなこの私の信心は、このようなことです。
このうえは、念仏を選ばれて信じられようと、また捨てられようと、それぞれあなた方のお考え次第であります。

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<住職のコメント>
         
   まあ、また例によってムチャクチャなことを言う人である、親鸞という人は。
    だって本文の趣旨は「ある人の言う事が本当だから、
   その人はウソをいってない」と言っているのと同じではないか。
   こんなもの、理屈でも論理でも何でも無い。
   しかしもう一度考えてみよう。
   もし、あなたが誰かに「真実に生きよう」と呼びかけられたとしよう。
    その時、あなたはどう反応するだろうか。
   「何をアホなことを」と歯牙にもかけないか。
   はたまた「なにが真実なのか」とか考えるかもしれない。
   後者の場合、その自分の答えに納得できればうなづくだろう。けれど、
   それなら、どちらにしても自分自身の「思い」によってイエス・ノ−を言っているのであり、
   それは自分の考え(判断)であって、真実そのものでは無いのではないか。
   ここで問われていることは、理屈ではなく、
         唯「真実あり」と言い切れるのか、否か。であろう。
         
       
That's the question!

―――以上『顛倒』99年7月号 No.187より―――

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